桜の降魔陣 銀の共鳴1 岡野 麻里安   目 次  序 章  第一章 |式《しき》|神《がみ》|紅葉《も み じ》  第二章 |災《さい》|厄《やく》のはじまり  第三章 |緋《ひ》の|犬《いぬ》|神《がみ》  第四章 |怨霊《おんりょう》出現  第五章 |中《なか》|臣《とみ》の|祭《さい》|文《もん》  第六章 |新宿《しんじゅく》からの呼び声  第七章 |血花桜《ちのはなざくら》  第八章 |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》  第九章 |地《ち》|霊《れい》|気《き》の|宝《ほう》|珠《しゅ》  第十章 はじまりの場所で   『銀の共鳴』における用語の説明   あとがき    登場人物紹介 ●|鷹塔智《たかとうさとる》 [#ここから1字下げ]  十六歳の超一流|陰陽師《おんみょうじ》。元JOA(財団法人日本神族学協会)職員だが、現在はフリーで|退《たい》|魔《ま》・|浄霊《じょうれい》を|請《う》け|負《お》っている。|京介《きょうすけ》と出会った直後に|昏《こん》|倒《とう》し、|記《き》|憶《おく》のすべてを失ってしまう。陰陽師としての知識は、潜在的に覚えている。普段は頼りなげで、周囲の|庇《ひ》|護《ご》|欲《よく》をそそる美少年。しかし、ひとたび陰陽師としての力を発揮すると、|傲《ごう》|慢《まん》な|瞳《ひとみ》の|怜《れい》|悧《り》な|美《び》|形《けい》に|変《へん》|貌《ぼう》する。 [#ここで字下げ終わり] ●|鳴海京介《なるみきょうすけ》 [#ここから1字下げ]  十七歳の高校生。|新宿区《しんじゅくく》|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》の安アパートで一人暮らしをしている。複雑な家庭環境を持つが、明るく健康的な正確で、誰からも好感を持たれる。ひょんなことから悟るを拾い、持ち前のお人好しな正確から、智や|麗《れい》|子《こ》と行動をともにすることに。|超常現象《ちょうじょうげんしょう》は死ぬほど嫌いだが、いざ悟を守るためとなると命を投げ出しかねない一面もあり、そのため、智から信頼を寄せられる。 [#ここで字下げ終わり] ●|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》 [#ここから1字下げ]  智の|後《こう》|見《けん》|人《にん》を自認する二十歳の|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》い。勝気な性格の美女。 [#ここで字下げ終わり] ●|紅葉《も み じ》 [#ここから1字下げ]  智の|式《しき》|神《がみ》。ノリがよく、一見|軽《けい》|薄《はく》だが、戦闘能力は高い。必殺技は「|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》」。 [#ここで字下げ終わり] ●|時《とき》|田《た》|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》 [#ここから1字下げ]  魔の盟主。カリスマ性のある|冷《れい》|酷《こく》な十八歳の少女。智とは幼なじみである。 [#ここで字下げ終わり] ●|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》 [#ここから1字下げ]  JOA所属の心霊治療師。日米ハーフで二十歳の美青年。緋奈子の|従兄《い と こ》にあたる。 [#ここで字下げ終わり] ●|黒《くろ》|木《き》|晋《しん》|一《いち》 [#ここから1字下げ]  京介や智と同学年の不良。暴力団とつながりを持ち、あくどいことを平気でこなす。 [#ここで字下げ終わり] ●|牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》 [#ここから1字下げ]  顔の左半分に|火傷《や け ど》の|痕《あと》を持つ少女。自分の|容《よう》|貌《ぼう》にコンプレックスを|抱《いだ》く。 [#ここで字下げ終わり] ●|九《く》|曜《よう》 [#ここから1字下げ]  緋奈子の式神。プラチナブロンドの髪の青年。女言葉をつかうが、いちおうは男。 [#ここで字下げ終わり] ●|北《ほく》|斗《と》 [#ここから1字下げ]  緋奈子の式神。燃えるような赤毛とスレンダーな|肢《し》|体《たい》を持つ美女。 [#ここで字下げ終わり]     序 章  |華《はな》やかなネオンの輝く|新宿《しんじゅく》の一角に、まったき|闇《やみ》がおりていた。  そのビルの周囲だけ、深い穴をあけたように電気が消えている。通り過ぎる人々は、その異常さに気づいていないようだ。  何事もなかったように、腕をからめて歩く恋人たち、家路をいそぐ勤め帰りのサラリーマン、笑いさざめく若者の群れ。  闇がのたうった。大人の胴ほどもある黒い|触手《しょくしゅ》が、ゾワゾワといくつも吐きだされる。触手が|淫《みだ》らに|蠢《うごめ》くたびに、先端から|嫌《いや》な|臭《にお》いのする粘液がしたたり落ちる。  ひゅん!  風を切って襲いかかる触手が、通りすがりの少女の腰に巻きついた。  一瞬、悲鳴をあげようと少女の口が開く。その顔面を、ペタリと触手がふさいだ。  ずるずると闇に引きずりこまれていく少女の体。  ややあって、また別の触手が宙に舞う。今度はサラリーマンふうの青年が、何が起こったのかわからないまま、闇の奥に消えた。  夕暮れのJR新宿駅から吐きだされる乗客の波は、とぎれない。  運の悪い誰かが触手に食われたことなど知らぬまま、その|小《こう》|路《じ》を満たす闇の前を通り過ぎる無関心な都会の人々。  カツン、とハイヒールが鳴った。  一人の美女がヨドガワカメラ新宿東口店を包む闇の前に立った。|派《は》|手《で》なアニマルプリントのスーツ、サラサラの長い髪。細い手首を飾る金のバングルが、ネオンの光に|映《は》えてチカリと輝く。  彼女の後ろには、高校生くらいの二人の少年が従う。  色黒で体格のいいほうは、学生服を着ている。  足もとは、緑と白のバッシュ。手にダブルデッキの黒いCDラジカセを持っている。  人のよさそうな顔だちだが、今の表情は、|怖《こわ》いくらい真剣だ。  もう一人は、|半《はん》|袖《そで》の白いコットンシャツにホワイトジーンズという白ずくめの姿だ。  ご|丁《てい》|寧《ねい》にバッシュも白、苦しげにしかめた|綺《き》|麗《れい》な顔も|蒼《そう》|白《はく》だ。 「ようやく見つけた……。|怨霊《おんりょう》の本体、ここだわ」  女の|深《しん》|紅《く》のルージュを塗った|唇《くちびる》が動き、ハスキーな声が|呟《つぶや》く。     第一章 |式《しき》|神《がみ》|紅葉《も み じ》  |新宿《しんじゅく》にむかう夕方の|山手線《やまのてせん》は、かなり込んでいる。  六月の上旬。  車内は、おざなりに空調がきいていたが、それでも空気はじっとりとして、暑苦しかった。  イモを洗うような車内に、|声《こわ》|高《だか》な会話が響きわたる。  声の|主《ぬし》は、若い女と少年二人だ。 「あたしが|怨霊《おんりょう》を|封《ふう》|印《いん》するから、あなたたちは、そのCDで式神呼んで援護してちょうだい。ディスクそのものに|召喚《しょうかん》の|咒《じゅ》が録音してあるから、スイッチ押すだけ。わかったわね」 「|麗《れい》|子《こ》さん……やっぱりやめようよ」  周囲の視線を気にして、|京介《きょうすけ》が泣き声を出す。  学生服の足もとは、緑と白のバッシュだ。  右手には、麗子に|強《ごう》|引《いん》に持たされたダブルデッキの黒いCDラジカセ。  問題の式神召喚用の黄色いディスクが入っているせいか、妙に重い。  電池のぶんを考えても、ちょっと不自然すぎるくらい肩にずっしりくる。 「俺、一般人だし、|退《たい》|魔《ま》なんかできねーってば」  京介は、声をひそめた。  退魔、なんてあぶない単語を、山手線のなかで口にするのは、ものすごく抵抗がある。 「来なくていいって言ったのに、ついていくってきかなかったのは、あんたのほうですよ」  その隣から、|智《さとる》がすねたような声で|呟《つぶや》く。  こちらは、|半《はん》|袖《そで》の白いコットンシャツとホワイトジーンズという白ずくめの姿だ。  暑い季節のことではあるし、涼しげでいいのだが、全身白で統一していると|洗《せん》|濯《たく》が大変ではないかと、京介はひそかによけいなことを考えてしまう。  智は、薄く日に焼けた指を胸もとに押しあて、時々、大きく顔を|歪《ゆが》める。  新宿で解放された怨霊の影響をいちばん受けているのは彼だ。 「たかとーがこんなに苦しそうなのに、ほうっておけるかよ。だいたい、途中で倒れでもしたら、麗子さん一人じゃ|抱《かか》えて歩けねーだろうが。だから、俺はつきそい役」 「たかとーじゃなくて……|鷹《たか》|塔《とう》です。鳥の鷹に、タワーの塔」 「わかったよ、鷹塔」  京介は、ささえるように智の肩に腕をまわした。  が、その手はすぐにふりはらわれる。 「オレに|触《さわ》らないで……ください。|感《かん》|応《のう》しますよ。あんたにこの痛みを移したくない」  |懇《こん》|願《がん》するような智の|瞳《ひとみ》。  今は苦痛のあまり、他人に気を|遣《つか》う余裕もないのだろうが、好意をすげなく|拒《きょ》|絶《ぜつ》されたような気がして、京介は|面《おも》|白《しろ》くない。 「なんだよ、痛みを移すって」 「智の言うとおりよ、京介君。彼は、|怨霊《おんりょう》や|魔《ま》|物《もの》の苦痛をダイレクトに感じる能力があるでしょ。|超能力《ちょうのうりょく》の一種で|共感能力《エンパシー》ってあるけど、あれに近い。智の|感《かん》|応《のう》能力を|封《ふう》じれば、すぐに痛みは消えるんだけど、そばにいる京介君に転送されちゃう。なんでかな……あなたたち、変に感応しあってるから。|下手《へ た》に触らないほうがいいわ」 「黙って見てるしかないってのかよ」 「すみません……ナルミさん」  智は苦しげに背を波うたせながら、電車のドアに肩を押しつける。視線を落とす。その申し訳なさそうな表情に、京介は自分が智をいじめているような気分になってしまう。 「謝るなよ」  智が少し顔をあげた。|綺《き》|麗《れい》な顔で|微笑《ほ ほ え》む。京介は、周囲の人波から智を守ろうと、片腕をドアにつっぱってガードしている。  智は、指先をのばして、甘えるように目の前の京介の腕につかまった。  思いがけないことに虚をつかれた京介に、智はペロッと|舌《した》を出してみせる。 「オレだけ痛いなんて不公平ですよね」  触られた部分から、予想したような激痛は伝わってこなかった。智の感応能力が|封《ふう》|印《いん》されないかぎり、京介に転送されることはないらしい。  腕に伝わってくる|温《ぬく》もりが智の心のような気がして、京介はホッとした。 「たかとー……いや、鷹塔……」 「ナルミさん、タッパありますね。何センチです?」 「一メートル八十七くらいかな。昔、バスケやってたから」 「なんでやめたんです。もったいない」 「家を出て貧乏になったんだ。学費以外、全部バイトでまかなってるし。時間なくてさ」 「なんで家出たんです」 「俺が、|親《おや》|父《じ》の本当の子じゃねえんで、いたたまれなくなった……ってとこかな。おふくろが浪費家のバカな女でさ……|浮《うわ》|気《き》したあげく、よその男のガキを亭主に押しつけて、平気な顔してんだ。親父、|情《なさ》けねえけど、それでもおふくろに|惚《ほ》れてて、|文《もん》|句《く》ひとつ言わねえ。俺の顔見ても、ニコニコ笑うんだぜ。てめえの息子じゃねえってわかってるくせに。……多感な高校生にゃ、しんどい家だったぜ」 「ナルミさん……」  智の表情が曇る。 「すみません、変なこと|訊《き》いちゃって……」 「いいってことよ。それより、おまえこそ、つまんなくないか、こんな話で」 「痛みがまぎれるんですよ、何か聞いてると。それに……オレ、まだナルミさんのこと、あんまり知りませんし」 「あのな、鷹塔、名字で呼ぶのはやめろ。アケミだのサトミだのって、ミで終わると女の名前みたいだし。やなんだよ、そういうの、俺」 「すいませんね、ナルミさん」 「……おまえ、俺に|嫌《いや》がらせしてない?」  智が、つらそうに顔をしかめた。白いコットンシャツの胸をつかむ指に、力がこもる。 「鷹塔、苦しいのか」 「ええ、少し」  電車は、|新《しん》|大《おお》|久《く》|保《ぼ》に到着する。乗降の人数はそんなに多くない。 「新宿に近くなると……きついですね」  智は、うめき声を殺すように、歯のあいだから息を吸いこんだ。  さっきから、ずっと心臓の激痛に耐えているのだ。 「もう少しの|辛《しん》|抱《ぼう》だからな。がんばれよ、鷹塔」 「そんなに、ひどくはないです」  智は、ため息のような声で|呟《つぶや》いて、京介の胸に背をもたせかけた。  夕暮れの窓の外を流れ去る|街《まち》のイルミネーション。  ガラスに映る智の|美《び》|貌《ぼう》を、京介はじっと見つめていた。  |綺《き》|麗《れい》なだけではない、|手《て》|強《ごわ》い生きもの。  胸のなかで誰かを対等だと認めたのは、これが初めてかもしれない。 「しょうがねえよなあ……乗りかかった船だし」 「|覚《かく》|悟《ご》は決まった、京介君?」  麗子が低い声で尋ねる。 「一緒に|新宿《しんじゅく》まで行って、|怨霊退治《おんりょうたいじ》につきあってくれるわね」 「くどいようだけど、俺、退治できるような力ねえよ。だいたい、俺、|霊能力《れいのうりょく》とかないフツーの人なんだぜ」 「フツーの人は、あたしの|犬《いぬ》|神《がみ》|視《み》えないし、|呪《じゅ》|火《か》も視えない。あなた、両方とも視えるじゃない。やっぱり、なんらかの力はあると思うわよ。|素人《しろうと》さんよりマシって程度だけど」  京介が抗議しようとするのを、麗子がそっと|唇《くちびる》に指をおいて止める。  彼女の視線を追っていくと、京介の腕のなかの智の姿にたどりつく。  苦しげにコットンシャツの肩が波うっている。|蒼《そう》|白《はく》な顔は、病人のようだ。 「麗子さん……」 「このぶんじゃ、智はあんまり戦力にならないかもしれない。だから、頼むわね、京介君。戦いがはじまったら、|式神召喚用《しきがみしょうかんよう》のCDは絶対に止めないで。ディスクはシングルだから、十二分で演奏が終わるわ。忘れないで、エンドレスにしてね。CDが止まったら、式神も消えるわよ」  麗子がCDラジカセに手をのばしながら、京介の耳もとにそっとささやく。 「式神の名前は|紅葉《も み じ》。お|利《り》|口《こう》な坊やだから、召喚したら、あとは紅葉が勝手に動くわ。あなたは、CDを守ることだけ考えて。智は、あたしが引き受ける」  彼女の左手には、|黒《くろ》|革《かわ》の手袋がはめられていた。片手だけの革手袋というのは、季節が|梅雨《つ ゆ》入り前ということもあって、かなり目立つ。  見ないふりをして、この三人を|眺《なが》めていた同じ車両の乗客の一人が、今にも倒れそうな智に席を|譲《ゆず》ろうと立ちあがった。 「どうぞ……」  あと一駅だからと、それを断っているうちに、電車は|新宿駅《しんじゅくえき》に到着した。      *    *  |邪《じゃ》|悪《あく》な|闇《やみ》が|蠢《うごめ》いていた。  ヨドガワカメラ新宿東口店に続く狭い|小《こう》|路《じ》である。  濃い影のなかに無数の|触手《しょくしゅ》の|気《け》|配《はい》。麗子が左手の黒い革手袋をはずし、|印《いん》を結んだ。 「ナウマクサマンダ・ボダナン・キリカ・ソワカ」  革手袋の下の皮膚は、|鮮《あざ》やかな|緋《ひ》|色《いろ》だ。  |染《そ》めた色や内出血の|痕《あと》ではない。  |真《しん》|言《ごん》が響きわたると、緋色の皮膚が、ぺろりとめくれあがる。めくれあがった皮膚は|凝《こ》り固まって、十センチほどの|狐《きつね》に似た|霊獣《れいじゅう》に変化する。緋色の|犬《いぬ》|神《がみ》だ。  京介が、|喉《のど》の奥でウガッというような音をたてた。 「やっぱ……ダメ。|悪《わり》ぃ……俺、オカルト|苦《にが》|手《て》だわ、鷹塔」 「そんなこと……言ってる場合ですか、ナルミさん」 「言ってみただけ。……逃げようなんて思ってないからさ」  言いながら、京介の|頬《ほお》はひきつっている。 (やっぱり、ついてこなきゃよかった) 「何やってるの、京介君、CD鳴らして! 早く!」  |叱《しっ》|咤《た》するような麗子の声が響きわたる。京介は、|慌《あわ》ててCDラジカセの演奏ボタンを押す。  そのまま、胸にしっかり|抱《かか》えこむ。  数秒遅れて、セクシーな男性ヴォーカルが流れだす。|召喚《しょうかん》の|咒《じゅ》が演奏に重なる。  京介と智の目の前に、パッと|派《は》|手《で》な若い男が出現した。 「チャオ! 呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン! 紅葉ちゃん|参上《さんじょう》っ!」  原色系のシャツと短パン、金茶色の髪。茶色の目は|悪《いた》|戯《ずら》っぽくキラキラ輝いている。  突然現れたところを見なければ、リゾートに出没する軽いノリの大学生にしか見えない。 「……うう……オカルトは|嫌《いや》」 「マスター、会いたかったよーん!」  派手な青年は、嫌そうな智と京介の肩に腕をまわし、陽気に騒ぎだす。 「紅葉のもっクンて呼んでねー」  京介は軽い|目《め》|眩《まい》を覚えた。 「……鷹塔、この|式《しき》|神《がみ》、なんとかならないか」  あまりの騒がしさに、つい式神の主人に|文《もん》|句《く》を言ってしまう。  返事は、しかし、|素《そ》っ|気《け》なかった。 「知りません」 「おまえが作ったんだろ、だって」 「|記《き》|憶《おく》にないです」  智の|口調《くちょう》は、いつになく|冷《れい》|淡《たん》だ。 (あ……マジぃ……)  京介は、激しく後悔したが、遅かった。  智は、記憶の話題を持ちだされて、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になっている。  超一流の|陰陽師《おんみょうじ》であるはずの鷹塔智は、現在、記憶|喪失中《そうしつちゅう》である。  原因は不明。  |霊力《れいりょく》の使いすぎで、一時的に記憶が消えているという説と、誰かに|呪《じゅ》|咀《そ》されているという説がある。どちらにしても、今の智は、自分が陰陽師であるという自覚すらない。  いつ記憶が戻るのかも、どうすれば戻るのかも、誰も知らない。  自分の名前以外のことは覚えていない状態というのは、ずいぶん不安なものに違いない。  この話題には触れないにかぎる。  京介は、素直に頭をさげた。ここは、謝り倒すしかない。 「鷹塔……ごめんっ! ごめんなっ! もう言わない」  智は、ため息をついたようだった。 「オレは、陰陽師なんてもんじゃないですからね……実感ないし。そういう扱いするの、やめてくれませんか」 「|悪《わり》ぃ……今の発言、取り消し」  智は、すねたような目つきで京介を|眺《なが》め、肩をすくめた。 「お互い|嫌《いや》なことは、早く片づけましょう。オレだって、好きで|退《たい》|魔《ま》なんかしにきたわけじゃないです」  そういう顔をすると、目がシベリアンハスキーに似ているだけに、けっこう|怖《こわ》い。  二人の目の|隅《すみ》に、長い髪を|翻《ひるがえ》して走りだす麗子の姿が映った。  アスファルトを|叩《たた》くヒールの音。  |闇《やみ》から|這《は》いだした|触手《しょくしゅ》が、風をきって麗子の上に落ちかかってきた。京介は、一瞬、麗子が|叩《たた》きつぶされるのではないかとゾッとした。  次の瞬間。 「|犬神招来《いぬがみしょうらい》! 退魔……!」  叫びとともに、麗子の手もとから、|紫《むらさき》の光を流星のように引いて五枚の|呪《じゅ》|符《ふ》が飛んだ。 「|禁《きん》|殺《さっ》|気《き》!」  呪符は、襲いかかる触手に|貼《は》りついた。触手の攻撃が、麗子の頭上でピタリと止まる。|呪《じゅ》|縛《ばく》された触手は、石になったように硬く|強《こわ》ばっていた。触手の表面にバチバチと電流のようなものが走るが、呪符の力のほうが強く、動けない。  同時に、|緋《ひ》|色《いろ》の|犬《いぬ》|神《がみ》が宙に舞う。  うねうねと|蠢《うごめ》く触手が、智と京介にむかってくる。逃げる|間《ま》もなかった。二人の腰や腕に触手がからみつく。冷たく|濡《ぬ》れた感触が全身を包んだ。 「ウワアアアアアアーッ!」 「オカルトは|嫌《いや》だあああああーっ!」  京介が悲鳴をあげる。  |主《あるじ》である智の恐怖に反応したのか、|式《しき》|神《がみ》の両手の|爪《つめ》がジャッと音をたてて、一メートルも飛びだした。|半《はん》|月《げつ》|刀《とう》のように|反《そ》りかえった十本の|鉤《かぎ》|爪《づめ》は、イルミネーションに|映《は》えて銀色に光っている。 「一番、紅葉! |魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》、いきまーすっ!」  智の|喉《のど》に食いこみかける|触手《しょくしゅ》の一つを、紅葉の長い鉤爪——魔斬爪が切り|裂《さ》いた。  ビシャッと|濡《ぬ》れた音をたて、地面に|叩《たた》きつけられる触手の先端。  腐ったような|臭《にお》いが強くなる。  次の瞬間、目にも止まらぬ速さで紅葉の両手が動き、二人を|縛《いまし》める触手は四方に|弾《はじ》け飛んだ。  ふわりと着地する紅葉の|瞳《ひとみ》は、別人のもののように|酷《こく》|薄《はく》だ。  あんなにおちゃらけているくせに、こんなに強いなんてサギだと、京介は思う。  周囲の人間は、この様子が見えないのか、何事もなかったように通り過ぎていく。 「俺たちだけに|視《み》えてるのか……」  京介が言いかけたとたん、二人の足もとのアスファルトが、数メートルにわたって大きく割れた。  ゴゴゴゴゴォーッ!  地面が激しく揺れる。 「逃げろ! 落ちるぞ!」  地割れを避けて、反射的に飛びのく。|生暖《なまあたた》かい夜の空気が、耳もとを|撫《な》でた。 「無事か、鷹塔!」 「あんたこそ!」  |動《どう》|悸《き》のする胸を押さえて見まわすと、三人が踏みこんだのは、ビルとビルのあいだの狭い|小《こう》|路《じ》である。退路は、地割れによって完全に|断《た》たれた。  地球の底まで続いていそうな、真っ黒な地割れのなかから、太い触手がうねうねと|這《は》いだしてきた。  触手がヒュンと風をきる。触手の先端に眼球のようなものが見えた。 「鷹塔ーっ!」 「うわっ!」  走りだした|拍子《ひょうし》につまずいて、京介の手からCDラジカセが吹っ飛ぶ。|派《は》|手《で》な音をたてて、アスファルトに叩きつけられる。  音楽が消えた。コンマ数秒遅れて、式神の姿も消滅する。|新宿駅《しんじゅくえき》のほうからのわずかなネオンの光で、CDディスクが地面に転がりだしているのがわかった。 「壊れた……!?」  京介は、息を呑んだ。 「来る……!」  智が、苦しい息を吐きながら、横に転がって|触手《しょくしゅ》の一撃をかわした。  立ちあがる足をすくおうと、別の触手がのたうって動きだす。  ふいに、智が胸を押さえ、ズルズルとアスファルトにくずおれた。必死で起きあがろうとする体に、何本もの触手がからみつく。白いコットンシャツの|袖《そで》|口《ぐち》や胸もとから、にゅるにゅると|這《は》いこんでいく|淫《みだ》らな異物。 「助け……て……ナルミさん……!」 「鷹塔っ!」  襲いかかる触手に|阻《はば》まれ、京介は、智に近づくことができない。 「京介君!」  |紫《むらさき》の光を放つ|呪《じゅ》|符《ふ》が宙を流れ、京介の頭上に落ちてきた別の触手に|貼《は》りつく。|濡《ぬ》れた音をたてて、触手が|弾《はじ》け飛んだ。すさまじい|腐臭《ふしゅう》。 「CD、どうしたの! 止めないで!」  必死の麗子の声が聞こえてくる。 「呪符だけじゃムリよ! お願い!」  |緋《ひ》|色《いろ》に輝く|犬《いぬ》|神《がみ》が、まっすぐヨドガワカメラを包む|闇《やみ》に飛びこんでいった。  ギャイン……と低い悲鳴。  緋色の|霊獣《れいじゅう》は、闇に大きく弾かれ、ネオンの輝く夜空に舞いあがる。 「……くっ……!」  犬神のダメージは、直接、術者に響くのか、麗子が苦しげに顔を伏せた。が、胸の前で|印《いん》を結ぶのはやめない。  突然、紫に光る呪符が、すべて真っ黒な煙を出して焼け落ちた。|呪《じゅ》|縛《ばく》されていた触手が息をふきかえす。  ピシッ……とあちこちで大気が|軋《きし》む。そろそろ麗子の体力も限界か。 「智! 京介君! 逃げて! もうダメ……。あたし、|抑《おさ》えきれない……!」  叫んだ麗子の声が、そのまま悲鳴になる。 「きゃあああああああーっ!」  のたうつ触手が麗子に落ちかかっていった。     第二章 |災《さい》|厄《やく》のはじまり  出会いは、同じ日の早朝だった。  |京介《きょうすけ》は、朝刊を山のように積んだ緑の自転車で、雨あがりの道をゆっくりと進んでいた。  六月とはいえ、川ぞいを吹きぬける風はまだ涼しい。  |神《かん》|田《だ》|川《がわ》にかかる|田《た》|島《じま》|橋《ばし》を渡り、さかえ通りに入った時、目の前に白い犬が飛びだしてきた。 「うわ……っ! あぶね……っ!」  ペダルを強く踏みこみ、その瞬間、上半身を使ってハンドルを引きあげる。前輪がグッとあがる。そのまま、後輪だけで走る。|我《われ》ながら見事なウイリー(後輪走行)だ。  だが、頭の悪い白犬は、タタタッ……と京介の前にまわりこんでくる。左手は放置自転車の帯、右手は白いガードレールだ。避けられない。|焦《あせ》ってバランスが|崩《くず》れた。 「この……バカ犬!」  ガードレールへの接触を避けて、全身で自転車ごと地面に倒れこむ。|弾《はず》みで後ろの荷台の新聞がバサッと落ちた。折あしく、アスファルトの|窪《くぼ》みに大量の泥水がたまっている。 「げーっ……マジかよ……」  京介は重い自転車を引き起こし、電柱に立てかけるのももどかしく、散乱した新聞とチラシの|束《たば》に駆けよった。地面に落ちた新聞の半分近くが、泥水を吸ってボコボコになっていた。  マズい……と|唇《くちびる》を|噛《か》む。|濡《ぬ》れて汚れた新聞を見ないふりして配っても、苦情の電話をかけてくる家の五軒や十軒、かならずあるに決まってる。  今から|明《めい》|治《じ》|通《どお》りのほうの販売店に戻って、予備の朝刊にチラシを折りこんで、この地区を配りはじめると、どんなにがんばっても二十分以上のロスは|覚《かく》|悟《ご》しなければならない。  六時五十分までにバイトが終わる予定だったのに、また店長に|顧客《こきゃく》の出勤前に届かないだの、配達時間が遅いだのと、言いがかりをつけられてしまう。  |慌《あわ》ただしく汚れた新聞を拾いあげ、手持ちのビニール袋につっこんだ時、男の声がした。 「おまえ、|火《か》|難《なん》の|相《そう》が出てるなあ」 「うるせえんだよ」  言い返しながら声の|主《ぬし》を探したが、見つからない。相手の声の大きさからして、数メートル以内にいるはずなのに、早朝の路上に人影はなかった。 「ここだ、ここ」  声は地面近くから聞こえてくる。京介はイライラと周囲を見まわした。 「なんなんだよ……うわっ……!」  京介は、思わずビニール袋を取り落とした。サインペンか何かで|眉《まゆ》を描かれた白犬が、マヌケな顔で京介を見あげ、|尻尾《し っ ぽ》をふっている。 「|脅《おど》かすなよ、変な顔……」  ニヤッとしかけた時、犬の鼻のあたりがモザイクでもかけたように妙に曇った。  京介は、一歩後ずさった。みるみるうちに、犬の鼻と口の形が変わり、眉が濃くなる。  もう見間違えようはなかった。犬の胴体から首をねじまげて京介を見あげるのは、|卑《いや》しい笑いを浮かべた中年の男の顔だ。口をきいたのはこいつだと、京介が理解するより早く、|人《じん》|面《めん》|犬《けん》はだらりと真っ赤な|舌《した》を出した。 「|火《か》|難《なん》の|相《そう》だぞ。忘れるなよ、|小《こ》|僧《ぞう》」 「な……なんだ……」  人面犬は、ククククッと含み笑いをもらした。 「俺が|怖《こわ》いか」 「|嘘《うそ》だろ……おい……化け物……」  視界がグラリと揺れた。人面犬の目が、どんどん大きくなっていく。  京介は、巨大な目のなかに落ちていきそうな|錯《さっ》|覚《かく》を覚えた。足もとの感覚が、ふいに消滅する。|失《しっ》|墜《つい》の予感。 「う……っ! 落ち……!」  その時だった。 「あぶない!」  京介の背後から、|鋭《するど》い叫びが走った。同時に、|紫《むらさき》の光を流星のように引いて二枚の|呪《じゅ》|符《ふ》が、人面犬にむかって飛んだ。キ……ン! と空気が鳴ったようだ。  京介の視界が、正常に戻る。 「|悪《あく》|魔《ま》|降《ごう》|伏《ぶく》、|怨《おん》|敵《てき》|退《たい》|散《さん》、|七《しち》|難《なん》|速《そく》|滅《めつ》、|七復速生秘《しちふくそくしょうひ》!」  |凜《りん》とした声が響きわたる。  人面犬が、悲鳴のような声をあげて逃げだした。その背中に紫に発光する呪符が|貼《は》りつく。  次の瞬間、ジュッと音をたて、人面犬の背中が縮みあがる。真っ黒な煙があがり、人面犬はみるみるタバコの箱ほどの小さな黒い|塊《かたまり》になり、動かなくなった。 「……なん……なんなんだよぉ……」  自慢ではないが、オカルトは大嫌いだ。 「あぶなかったですね。あれに|魅《み》|入《い》られたら、|神《かみ》|隠《かく》しと同じで、二度と戻ってこられないところでしたよ」  |皮《ひ》|肉《にく》めいた声に恐る恐るふりかえる。  白いコットンシャツとホワイトジーンズという、白ずくめの少年が立っていた。一度見たら、二度と忘れられないような|美《び》|貌《ぼう》だが、|傲《ごう》|慢《まん》を絵に描いたようなきつい目つきだ。  |潔《いさぎよ》い|気《け》|配《はい》は、|怜《れい》|悧《り》な日本刀を思わせる。  胸の前で交差した両手には、まだ|紫《むらさき》に発光する|呪《じゅ》|符《ふ》を持っている。  これが、|陰陽師《おんみょうじ》・|鷹塔智《たかとうさとる》との出会いだった。      *    * 「ど、どうも……」  ありがとう、と言いかけて、京介は|眉《まゆ》をよせた。相手の表情が劇的に変わっていく。自信に満ちた傲慢な表情だったのが、別人のように頼りなげな「子供」の顔になる。五歳くらいは|幼《おさな》くなった感じだ。 「え……どうしたんだ、おい」 「力、使いすぎました。敵の追っ手を始末するのが精いっぱいで……もう陰陽師としての意識、保っていられない。忘れてしまう……力が薄れてく……」 「力って、あの|人《じん》|面《めん》|犬《けん》やっつけたような力か」  一瞬、すがりつくような少年の瞳に、先刻までの尊大な光がよぎった。  消えていく陰陽師としての意識と、現在の意識が|交《こう》|錯《さく》しているようだ。 「あんなのは、いつもなら力のうちに入らない。でも……今は|消耗《しょうもう》しすぎてて……」  少年は苦しげに顔をしかめ、肩で息をしている。顔色がひどく悪い。 「おい、冷や汗かいてるぜ。|大丈夫《だいじょうぶ》か。救急車……」 「病気じゃありません。|霊力《れいりょく》の消耗だから……休めばなおります」 「でも……真っ青だぜ。無理すんなよ」  配達時間の遅れで、京介はイライラしはじめた。朝刊の場合、遅配は、すぐに販売店の売り上げに|跳《は》ね返ってくる。この地区の|顧客数《こきゃくすう》を減らしたら、せっかく|皆勤賞《かいきんしょう》でがんばってきたのに、来月の昇給がパーになってしまう。  こんなところで、遊んでいる場合ではない。が、生まれついてのお人よしな性格が|災《わざわ》いした。京介には、どうしても、目の前の体調の悪そうな少年をほうりだして、自転車に乗ることができない。  ふいに、少年の体が大きく揺れ、冷たいアスファルトの上に倒れこむ。 「あ……大丈夫か、ちょっと」  うつぶせになった背中は、そのままピクリともしない。 「あの……もしもし? 生きてるか?」  不安になって肩を揺すぶり、体を|抱《かか》え起こすと、少年は目を閉じてグッタリしている。  これは、もしかすると、倒れた時に頭を打ったのかもしれない。  駅前まで戻れば交番があるし、すぐそこの電話で救急車を呼ぶという手もある。  あるいは、このまま放置して逃げるという手も……。  京介は、ふう……とため息をついて、空を仰いだ。 「俺って損な性分」  行き倒れを見捨てて、このまま配達のバイトを続けられるような要領のいい男でないのは、自分でもよくわかっていた。そんな性格なら、そもそも最初から、都内の自宅を飛びだして、新聞配達のバイトで生活費を|稼《かせ》ぐような不器用な|真《ま》|似《ね》はしないだろう。      *    * 「え……はい、そうです。三丁目の|西《にし》|田《だ》さんのところから先……ずっとです。あ、副店長が応援にきていただけますか……はい……本当にすいません。……気をつけます」  ピーピー鳴きわめくテレホンカードを乱暴に抜いて、ジーンズのポケットにつっこむ。  行き倒れ少年は、まだ|濡《ぬ》れたアスファルトの上に転がっている。  京介は落ちた新聞の|束《たば》をまとめ、荷台にくくりつけると、少年を見おろした。  少し迷って、緑の自転車を朝刊ごと放置すると、新聞配達で|鍛《きた》えた肩に、半分意識のない少年の体をかつぎあげる。予想したほど重くはなかった。  |梅雨《つ ゆ》入り前とはいえ、風はもう|生暖《なまあたた》かい。  クーラーも|扇《せん》|風《ぷう》|機《き》もない狭い四畳半に男二人というのはゾッとしないが、この際、やむをえない。  京介は慣れた足どりで、さかえ通りをぬけ、駅前のゆるい坂を上りはじめた。  早朝のこの時間、開いているのはコンビニとマクドナルドとドトールくらいだ。      *    *  京介の住まいの|朝《あさ》|日《ひ》|荘《そう》は、|明《めい》|治《じ》|通《どお》りから少し奥に入ったあたり、|閑《かん》|静《せい》な住宅街の真ん中にある。  築四十年という学生相手のアパートで、昔は旅館だったらしく、各部屋に|床《とこ》の|間《ま》もどきと|桜《さくら》の|梁《はり》が残っている。  もちろん、今は半畳の台所に小さなコンロと水道が|据《す》えつけられ、四畳半の空間にそれぞれ|世《せ》|帯《たい》|主《ぬし》たちが住んでいた。  狭い部屋は、|布《ふ》|団《とん》を敷いて人を寝かせるとよけい狭苦しく感じられた。  |慌《あわ》ただしく朝食を作り、病人の|枕《まくら》もとに置き、意識のない顔を見守るうちに、時計は八時二十分を指す。京介は学生服に着替え、立ちあがった。  彼の通う|諏訪東《すわひがし》高校は、ここから徒歩で十分、マウンテンバイクで五分の距離にある。  もうそろそろ出ないと、|遅《ち》|刻《こく》してしまう。  その|気《け》|配《はい》に気がついたのか、病人の|目《ま》|蓋《ぶた》が震え、|瞳《ひとみ》が薄く開く。 「どこ……?」 「俺んち。JRの駅、近くだからさ。安心しろよ。あ、|鍵《かぎ》置いてくから、気分よくなったら勝手に帰っていいぜ。俺、これから学校行くけど」 「JR……何線ですか」  京介は、通学用のビニール|鞄《かばん》を持ったまま、相手の青い顔を見おろした。  日本刀のように|怜《れい》|悧《り》で、|潔《いさぎよ》い|美《び》|貌《ぼう》。  |凜《りん》としていて、誇り高い|魂《たましい》の存在を感じさせる。  印象的なのは、京介を見つめかえす瞳だ。  よく言えば、|一《いち》|途《ず》でひたむきな瞳だが、悪く言えば、シベリアンハスキーのような|怖《こわ》い目つき。  もっとも、京介はこういうタイプの男が嫌いではない。プライドの高い|奴《やつ》は好きだ。  誇りを持っている男は、信頼できる。たとえ誰かを裏切ったり、悪事を働いたとしても、その行動には納得できる理由があるからだ。こういう奴は、意地でもみっともないことはしない。 (拾って正解だったかもしんない……) 「|山手線《やまのてせん》に決まってるだろ。|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》|駅《えき》の近くだよ」 「馬場……ですか」 「おまえ、家どこさ。近いのか」  近くなら、少し遅刻して送っていこうと思った時、京介は目を見張った。  少年の瞳が|潤《うる》み、|両頬《りょうほお》が泣くまいというふうに緊張する。 「オレ……覚えてないです」  小さな声でそう言った。 「ええ? 覚えてないって……おまえ……」  |記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》。  そんな一昔前のドラマみたいな話って……。  京介はぺたんと|畳《たたみ》に座りこみ、枕もとに両手をついて病人の顔を|覗《のぞ》きこんだ。 「名前は? 何か手がかりは思い出せないか? いつからだ?」 (もしかして、力を使いすぎたとかいうのと関係があるんだろうか。  だとしたら、|人《じん》|面《めん》|犬《けん》から救ってもらった俺にも、責任はあるのかも……)  もう学校へ行くどころではなかった。  真っ黒に日焼けした京介の顔が真剣になる。  病人は、すがりつくような目で、京介を見あげた。 「オレ、自分の名前だけは覚えてます」 「言えるか」 「鷹塔智」 「そっか……。あ、俺、|鳴《なる》|海《み》京介」 「オレを拾ってくださったんですか、ナルミさん……すいません」  鷹塔智、と名乗った少年は目をそらし、|丁《てい》|寧《ねい》な|口調《くちょう》で礼を言った。 「すぐ起きて出ますから……。少しだけ休ませてください」 「出るって……行くあてとかあるわけ?」  |枕《まくら》の上で頭が横にふられる。|途《と》|方《ほう》に暮れたような表情。 「でも、ご|迷《めい》|惑《わく》かけるわけにいかないです」 「迷惑ならもうかけてる」  あれだけ|派《は》|手《で》に、ワンブロックまるまる配達ほうりだしてきたんだ。店長の説教だけですめばいいけど、|下手《へ た》したらバイト代さっぴかれて、最悪の時はクビだ。 「……すいません」 「責任とれよ。あんなミスやって、そのうえ、せっかく助けた行き倒れまでいなくなったら、俺、立つ瀬ない。せめて俺のボランティア精神だけでも満足させろよ」  言いながら、安心させるように笑ってやる。  |拒《きょ》|絶《ぜつ》されるかも、と思ったが、相手は、とっつきにくそうな外見のわりには案外素直だった。 「じゃあ、よろしく……お願いします」  |綺《き》|麗《れい》な切れ長の目で見られて、|潔《いさぎよ》くささやかれると、男の京介でさえドキリとした。      *    *  結局、京介は智の|看病《かんびょう》を口実に、学校をサボッた。  そのうち、|睡《すい》|魔《ま》に負け、智の横に枕を置いて|優《ゆう》|雅《が》に朝寝を決めこむ。  十時を過ぎた頃、京介は苦しげなうめき声に目を覚ました。 「え……?」  智が胸を|鷲《わし》づかみにして、のたうちまわっている。ひどく苦しそうだ。  こうもいきなり|容《よう》|体《だい》が急変するとは思わなかった京介は、かなり|焦《あせ》った。 「どうした! |大丈夫《だいじょうぶ》か!?」  智は心臓のあたりを押さえている。|爪《つめ》をたてたコットンシャツの胸はグシャグシャ。ボタンもとれかかっている。 「水……を……」 「わかった! 水だな!」  足音も荒く半畳の台所に走る。|蛇《じゃ》|口《ぐち》をひねった瞬間、京介は悲鳴をあげて飛びあがった。 「うわああああーっ!」  水の出るはずの蛇口から、音をたてて吹きだしたのは青い|炎《ほのお》。何げなく蛇口の前に出していた手が、突然の|火傷《や け ど》でヒリヒリする。 「何……これ……」  水で冷やさなければ、と思ったが、|肝《かん》|心《じん》の蛇口がこれでは冷やすどころではない。手の甲が、みるみるうちに赤く|火《ひ》|膨《ぶく》れになっていく。 「どう……したんです……?」  不安げな智の声。 「水が出ない! 蛇口ひねったら火が……!」  ふいに、あの|人《じん》|面《めん》|犬《けん》の言葉が|脳《のう》|裏《り》に|甦《よみがえ》った。  ——|火《か》|難《なん》の|相《そう》だぞ。忘れるなよ、|小《こ》|僧《ぞう》。  京介の|背《せ》|筋《すじ》がザワザワと寒くなる。なんなんだ、この一致は……。  その時、ピ……シッ! と空気が鳴った。  智の体の周囲で、オレンジ色のプラズマのようなものが|弾《はじ》けた。 「うわっ!」  思わず、京介は智から飛びのき、|畳《たたみ》の上で後ずさった。  オレンジ色の光は、|稲《いな》|妻《ずま》のような|軌《き》|跡《せき》を|描《えが》いて、室内を|縦横無尽《じゅうおうむじん》に走りぬける。  京介の|頬《ほお》にすさまじく熱い風が吹きつけた。 「な……なんなんだっ!」  室内が異様に熱くなってくる。乾ききった風にさらされて目が痛い。  見ると、|換《かん》|気《き》|扇《せん》がゴウゴウと音をたて、室内に焼けつくような風を送りこんでいた。  台所の蛇口からも、青い炎が滝のように流れだしている。  パチパチと|弾《はじ》けるような音がして、台所の棚が燃えはじめた。  真っ赤な炎が|天井《てんじょう》まであがる。 「なん……だ……これ……」 「火事……?」  智が、胸を押さえながら、低く|呟《つぶや》く。その|瞳《ひとみ》が驚きに大きく見ひらかれている。 「そんなバカな!? さっきまで、火なんかなかったんだぞ!」  キシ……と窓ガラスに|鋭《するど》いヒビが入り、次の瞬間、内部から|砕《くだ》け散った。  すさまじいポルターガイスト現象。  室内に、涼しい風が吹きこんでくる。風はカレンダーを|翻《ひるがえ》し、机の上の新聞を吹き散らし、ダストボックスのなかの紙クズを宙に舞いあげた。  目の|隅《すみ》に、オレンジ色に|淡《あわ》く光るいくつもの人影が|視《み》える。  |炎《ほのお》のなかで、|幽《ゆう》|鬼《き》のような姿が踊っていた。薄暗い四畳半のなかで、人影は固まったまま|陽炎《かげろう》のように揺らめき、時々スーッと|天井《てんじょう》までのびたりしている。 「夢だ……」  悪夢でも、ここまでひどいのにはお目にかかったことがない。 「なんでだ……なんでなんだ……!?」  火もとの台所と出口付近は、すでに近寄ることもできない赤と金の炎のなか。真っ黒な煙と一緒に大量の火花が飛んできて、|畳《たたみ》や|襖《ふすま》に燃えつく。  京介は、|茫《ぼう》|然《ぜん》と座りこんだまま、それを|凝視《ぎょうし》していた。  頭のなかに、|敷《しき》|金《きん》が返らなくなる、という言葉だけがグルグルとまわっている。  狭いながらも、親もとを飛びだして、新聞配達と深夜のファミリーレストランのバイトだけで手に入れた城だった。それが今、いともあっけなく焼け|崩《くず》れていく。  千円、二千円と生活費を切り詰めて手に入れたゲームソフトのコレクションや、再生専用のビデオデッキ、中学時代の写真、昔、所属していたバスケ部の、それだけは捨てられずにとってあったユニフォーム。  何もかもが焼け落ちていく。手のなかから失われて。 「逃げ……ましょう。このままじゃ、死にます……」  智が、京介の腕に手を置いた。  京介は、ふらふらと立ちあがった。胸は|破《は》|裂《れつ》しそうだし、頭のなかもひどく混乱している。どうして正気でいられるのか、自分でもわからない。 「鷹塔……」 (この火事は、おまえが来たから起こったんじゃないのか。おまえのせいで、こんなことに……。おまえが来るまで、俺はオカルト現象なんか|無《む》|縁《えん》だったんだ) 「ウワアアアアアアーッ!」  ふいに、思いもかけず、|獣《けもの》のような|絶叫《ぜっきょう》が|喉《のど》からもれた。  考えてはいけない、と思いながらも、思考はどんどん危険な方向へ転がっていく。  |刹《せつ》|那《な》——。  炎に包まれたドアが、すさまじい音をたてて砕け散った。  台所の|炎《ほのお》が弱まり、|廊《ろう》|下《か》から涼しい風が吹きこんできた。  見たこともない|緋《ひ》|色《いろ》の小さな|獣《けもの》が、まっすぐに四畳半に飛びこんでくる。  緋色の獣は、チィチィ鳴きながら、智の肩に飛びのり、ビーズ玉のような真っ黒な目をクルクルまわした。 「なん……なんなんだ……」  数秒遅れで、一人の美女が駆けこんできた。アニマルプリントの|派《は》|手《で》なスーツを着ている。  サラサラの長い髪、気の強そうな顔、八センチはありそうなピンヒール。細い手首には、重たげに金のバングルが揺れている。  そこまで決めているのに、左手にだけ黒い|革《かわ》の手袋をしているのが不自然で、妙に人目をひいた。 「二人とも、どいて! あぶないわよ!」  美女の手もとから、|紫《むらさき》の光を流星のように引いて一枚の|呪《じゅ》|符《ふ》が飛んだ。 「|禁《きん》|劫《ごう》|火《か》!」  呪符は空中で四枚にわかれ、|天井《てんじょう》の四方に|貼《は》りついた。  |火《か》|勢《せい》が|衰《おとろ》え、オレンジ色の|幽《ゆう》|鬼《き》が炎のなかで動かなくなる。  京介と智は、|這《は》いずるようにして、部屋の外に出た。  細長い廊下は、さっきまで、突然の火事に驚いて逃げる入居者の足音がしていたが、今は誰もいなかった。  美女の両手が胸の前で組みあわされる。 「ナウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワカタヤ・ウンタラタカンマン」  早口の|真《しん》|言《ごん》。  右手で|刀《とう》|印《いん》を結んだまま、黒い革手袋をはめた左手がスッとあがった。  その光景は映画のワンシーンを思わせる。智は茫然とした表情で、美女の姿を見つめていた。 「なんだ…これは…? なんなんだ?」  京介は、廊下の白壁によりかかり、混乱する頭を|抱《かか》えた。これは、まだ夢の続きだろうか。それにしては、何もかもがリアルすぎる。  美女の手には、|街《まち》|中《なか》でよく見かける|勾《まが》|玉《たま》のペンダントが握られていた。ヘッドの石は|紅水晶《ローズクオーツ》。いわゆるパワーストーンの|類《たぐい》だ。 「|召邪封印退魔法《しょうじゃふういんたいまほう》!」  紅水晶が白い手のなかでクルクル回り、派手なショッキングピンクに光りはじめた。 「|魔鬼幽魂招来《まきゆうこんしょうらい》!」  |炎《ほのお》のなかの|幽《ゆう》|鬼《き》が、すさまじい|形相《ぎょうそう》のままブルッと震えた。そのままショッキングピンクの光球に吸いこまれていく。  |紅《ぐ》|蓮《れん》の炎をあげていた室内が、一瞬のうちに|鎮《ちん》|火《か》する。  あとに残るのは、焼け|焦《こ》げた|畳《たたみ》や壁、変形したTVとふわふわの白い灰ばかりだ。 「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン!」  |派《は》|手《で》なショッキングピンクの光球が光を失い、|紅水晶《ローズクオーツ》の|勾《まが》|玉《たま》に戻った。  素早くいくつかの|印《いん》を結んだ美女は|呪《じゅ》|符《ふ》を回収し、長いストレートヘアをけだるげにかきあげた。シャラン……と手首の金のバングルが鳴る。  |鋭《するど》い|瞳《ひとみ》が、京介と智を|凝視《ぎょうし》した。 「何やってんのよ、あたしが来たからよかったようなものの……」  誰が呼んだのか、遠くから消防車のサイレンが近づいてきた。     第三章 |緋《ひ》の|犬《いぬ》|神《がみ》  空調のきいた日本|家《か》|屋《おく》の一室——。 「本当によかったのか、ピヨ子……いや、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》」  行儀悪く|片《かた》|膝《ひざ》をたてたまま畳に座りこみ、朝食の塩ザケの皿をつつきながら、白衣の青年が|呟《つぶや》く。背中で結ばれた薄茶の髪は、先端が畳に届くほど長い。  銀ブチ|眼鏡《め が ね》のむこうの瞳は、日本人離れしたハシバミ色だ。全体にボーッとした|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がある。 「よかったか、ですって?」  まったく|疵《きず》のない|透《す》きとおった声が、小さく笑う。  情念のこもった|漆《しっ》|黒《こく》の髪、純和風の顔だちの少女が、食卓から顔をあげた。  けっして今ふうの美人という顔ではない。|面《おも》|長《なが》で、|額《ひたい》が広く目が細い。全体としては|能《のう》|面《めん》を思わせる、のっぺりした顔だ。  だが、十七、八の小娘の外見にくらべて、瞳だけが異様に強い光を放っている。目を離すことができない。大の大人でも圧倒されてしまうような、カリスマを感じさせる。  ほっそりした体につけているのは、白い綿のブラウスと、|紺《こん》|色《いろ》のフレアースカート。足には、やはり|色《いろ》|気《け》のない白い|木《も》|綿《めん》のソックス。  長い黒髪は、背中でまとめてゆるく三つ編みしてあった。 「緋奈子はね、いい悪いなんてことは考えないのよ。|智《さとる》ちゃんの|記《き》|憶《おく》に|呪《じゅ》|咀《そ》を仕掛けたのは、そうしなければならなかったから。あの子、ほっておいたら死んじゃうもの」 「死んじゃう、じゃなくて、おまえが殺してた、だろ。|邪《じゃ》|魔《ま》になったのか……あんなに仲がよかったくせに。好きだったんだろ。お互いに本気だったんじゃないのか。おまえらのあの|絆《きずな》はなんだったんだ。誰にも入りこめない世界に、二人でどっぷり|浸《つ》かってやがったくせに」 「うらやましかった?」 「|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》だったよ、正直言って。引く手あまたの美少年が、なんでこんな顔も性格も悪い女に|惚《ほ》れるのか」 「はっきり言うわねえ、たっちゃんてば。|従兄《い と こ》じゃなかったら、|縛《しば》り首よ」 「つまり、あいつは、誰もいいとは言わないような最悪の女がいいわけだ。たんなるゲテモノ食いだろ。理解しがたい話だがね。おまえ、美少年|陰陽師《おんみょうじ》の純愛を踏みにじれるような立場だと思ってるのか。身のほどをわきまえろよ。……キスもさせてやらなかったんだって? 信じられない女王さまだな」  緋奈子の|瞳《ひとみ》が、目の前の|従兄《い と こ》を通りこして、ここにはいない少年の|面《おも》|影《かげ》を追う。燃えるように|苛《か》|烈《れつ》な|眼《まな》|差《ざ》しは、智を想う時、わずかにやわらいだ。 「だって、|前《ぜん》|世《せ》で智ちゃんと母と子だってわかっちゃったんだもの。いくら前世のことだっていっても、緋奈子は思い出しちゃったんだ。こうなったら、男女の関係になんかなれないよ」 「前世がわかるなんてのは、おまえの思い込み。気の迷いだよ。早く社会復帰しろ」 「とにかく、緋奈子は智ちゃんのことは愛してるわよ、|未《み》|来《らい》|永《えい》|劫《ごう》。でも、それとこれとは別だわ。智ちゃんは、緋奈子の|復讐《ふくしゅう》には邪魔なのよ。|陰陽師《おんみょうじ》やっててもらうと困るの」 「今後敵対するつもりなら、ちゃんづけはよせ。気色悪い」 「八年のつきあいだもの。今さら呼び方は変えられないわ」  緋奈子は、|懐《なつ》かしげに|呟《つぶや》く。  しばらく、二人は黙りこんで食事を続ける。やがて、青年がズバリと核心に切りこんだ。 「ピヨ子、おまえ、こだわってるだろう。十八年前、|叔《お》|父《じ》|貴《き》が|霊力《れいりょく》の強い十五歳の娘を|誘《ゆう》|拐《かい》して、|強《ごう》|姦《かん》したこと。そうやって、お袋さんが無理やりおまえを|産《う》まされて、自殺したから……だから、ピヨ子は智とのことも妙に|潔《けっ》|癖《ぺき》なんだ。そうだろ」  違う、というふうに、緋奈子は小さくかぶりをふる。 「十八の娘が、|惚《ほ》れた男にキスもさせないのは異常だぞ」 「|霊力《れいりょく》なんか腐ってしまえばいい。こんな血いらなかった。緋奈子が潔癖なら、セオドア、ううん、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》、あなたはどうなのよ。やっぱり、時田一門の霊力保持のためにだけ結婚したご両親に反発して、ゲイに走ってるじゃないの。……|他人《ひ と》のことが異常だなんて言えた義理?」  時田忠弘、と呼ばれた青年は、行儀悪く|味《み》|噌《そ》|汁《しる》をスプーンでかきまわしながら、チラと緋奈子を|眺《なが》める。その顔には、してやったりという意地の悪い|笑《え》みがある。 「やけにムキになるじゃないか。じゃあ、三年前のあの|噂《うわさ》も本当だったんだな。叔父貴の死因、書類上は|脳卒中《のうそっちゅう》となってるが、じつは|呪《じゅ》|殺《さつ》。立ち入りを禁じられた|邪《じゃ》|神《しん》の|社《やしろ》で、実の娘を妻と|錯《さっ》|覚《かく》して|犯《おか》そうとして……脳が内側から|弾《はじ》けて死んだそうだな。見事な霊力だよなあ、緋奈子。さすが、この国最強の邪神・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》にとりつかれているだけのことはある」 「時田忠弘! それ以上言ったら許さない!」  青年は、|雌豹《めひょう》のように|猛《たけ》りたった緋奈子を|面《おも》|白《しろ》そうに眺め、食卓に|肘《ひじ》をついた。 「まあ、そう怒りなさんな。|親《おや》|父《じ》さんを殺すために、邪神の|封《ふう》|印《いん》を解いてしまったピヨ子の気持ちは、わかってるつもりだがね。わたしも、叔父貴は死んだほうがいい|奴《やつ》だと思ってたさ。昔から、あいつはクズだった。好きにやれよ、ピヨ子。火之迦具土の|怨《おん》|念《ねん》が、おまえを駆りたててる。この国に|復讐《ふくしゅう》したくて、全身が|疼《うず》くんだろう。この国が地上から消えれば、おまえは楽になれるんだろう。好きにしろよ。止めないさ。わたしは、この世で智以外のものにはいっさい興味がないしな」  緋奈子は、|妖《よう》|艶《えん》な微笑を浮かべた。 「甘いわね。時田忠弘、あなたも部外者ではいられないわよ。いいかげん|覚《かく》|悟《ご》を決めてよね。智ちゃんの|記《き》|憶《おく》が万が一にも|封《ふう》|印《いん》しきれなかったら……緋奈子と殺しあいよ。あなたが個人の立場で智ちゃんをベッドに連れこむのも、無料で治療行為するのも自由だけれど、忘れないでね。あなたは、まず緋奈子の配下のJOA所属の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》だってこと。時田一門の次期|宗《そう》|主《しゅ》たる緋奈子が、あなたに智ちゃんとの戦いを命じることだってあるのよ」  守勢から攻勢に転じた緋奈子は、|容《よう》|赦《しゃ》なく|従兄《い と こ》のウイークポイントを責めたてる。心霊治療師は、ギョッとしたように|従妹《い と こ》の|酷《こく》|薄《はく》な|瞳《ひとみ》を見つめかえした。 「ピヨ子、おまえ……わたしは何ひとつ忘れられないんだぞ。知っているくせに」 「|記憶障害《きおくしょうがい》の一種で……って。わかってるわよ。知ってて言ってるの。|残《ざん》|酷《こく》でしょ」  緋奈子は優しい声でささやく。 「緋奈子はね、こういう|意《い》|地《じ》|悪《わる》な女なの。この性格は変えられないよ。たぶん一生ね」 「女は|怖《こわ》いな。……男でよかったよ」 「そうねえ。緋奈子も、男に生まれればよかったなあ。そうしたら、世界じゅうの女に手を出して、さんざん遊んで冷たく捨てたり、|貢《みつ》がせたり、悪のかぎりを尽くせたのに」 「おまえ、その男性観は|歪《ゆが》んでるよ」 「そうかなあ……智ちゃんだって、外見は|綺《き》|麗《れい》だけど、中身はきっとケダモノだと思うよ」  |嫌《いや》な顔をした青年にむかって、緋奈子はぺろりと|舌《した》を出してみせる。 「絶対、緋奈子を見て、心のなかでエッチなことしてたに決まってる。……服、|脱《ぬ》がせたりとか」 「朝メシ、ごちそうさま。できれば、次はピザと|苺味《いちごあじ》のアイスを用意してもらいたい」  時田忠弘は、これ以上の緋奈子の言葉をさえぎるように立ちあがった。 「太るわよ。ジャンクフードばっかり食べて……。日本人なら、やっぱり和食よ」 「わからんな……」 「でしょうね。あなた、半分しか日本人じゃないもの。自分の従兄が半分ヤンキーだなんて嫌になっちゃう。ヤンキーって|味《あじ》|音《おん》|痴《ち》多いのよね。サイテー」 「|邪《じゃ》|神《しん》に取りつかれて、半分しか人間じゃない女よりはマシだろう」  心霊治療師は、銀ブチ|眼鏡《め が ね》のむこうから冷たく緋奈子を見おろし、和室を出た。  緋奈子の勝ち誇った笑い声が、どこまでも追ってくる。      *    *  一方、|京介《きょうすけ》のアパートでは——。  美女は、カツカツとヒールを鳴らして近づいてくると、いきなり智の|頬《ほお》をひっぱたいた。  バシッ!  薄暗い|廊《ろう》|下《か》が一瞬、静まりかえる。 「何やってたのよ、智! |今朝《け さ》、ずっと待ってたのに! 心配かけて……!」  智は、打たれた頬を押さえ、|茫《ぼう》|然《ぜん》と美女を見かえした。  切れ長の|瞳《ひとみ》には|困《こん》|惑《わく》の色だけがある。 「おい……待てよ」  京介は、智を守るように一歩踏みだした。その前に美女が立ちふさがる。 「火事のこと、申し訳なかったわ。たぶん、智のせいだと思うけれど、いずれ損害のあったものの合計金額で請求書を送ってちょうだい。きちんと払うわ。送り先はここ」  京介は腕を組んで、|名《めい》|刺《し》を差し出した|派《は》|手《で》な美女を|睨《にら》みつけた。 「なんだよ、あんたは。こいつのなんなの?」 「仕事仲間で、いちおう|後《こう》|見《けん》|人《にん》もかねてるわ。何……その目は」 「やめてください、お姉さん」  低い、押し殺した声が割って入る。京介と女の視線が同時に智を射すくめた。|麗《れい》|子《こ》の視線を受けとめる智の切れ長の瞳は、ギラギラと|怒《いか》りに燃えている。 「オレ、こんなところで騒ぎを起こしてほしくないです。あなた……」  智の瞳が|冷《れい》|然《ぜん》と女をねめつける。 「オレを知ってるようですけど、オレはあなたを知らないです。すいませんけど」  美女は|深《しん》|紅《く》のルージュを塗った|唇《くちびる》に不安げな|笑《え》みを浮かべる。 「智、おかしいわよ。どうしたの」 「オレ、|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》らしいです」 「記憶喪失……?」  美女はからかわれているのかと危ぶむような表情で、目の前の少年を|凝視《ぎょうし》した。 「何も覚えてません。自分の名前しか」 「いつから?」 「たぶん今朝から。その前の記憶、ないもんで」  切れ長の瞳が、不安げに揺れた。が、すぐに親の|敵《かたき》でも|睨《にら》むように、もっときつい視線になって宣言する。 「何も覚えてません」 「そう……」  ため息のような声。 「|一昨日《おととい》、智の電話つながらなかった時から、やな予感してたのよね……。そっか。こういうことか……」  美女は、迷いを|断《た》ち切るように頭をふり、ため息をついた。 「いいわ。あなたが誰か教えてあげようじゃない。あたしが知ってる範囲のことだから、プライベートなことまではあんまりわかんないけど。……なんで、こんな|超常《ちょうじょう》現象が起きるのか、知りたいでしょ」 「オレ……知らなくてすむなら、知らなくてもいいです」 「ダメよ。|嫌《いや》でもあなたの周りには、|怨霊《おんりょう》や|魔《ま》|物《もの》が集まりやすいんだから。これ以上、誰かの家を火事にしないためにも、知っておくのはあなたの義務だと思う」  智と京介は、互いに顔を見あわせた。美女の表情は真剣だ。|冗談《じょうだん》や|嘘《うそ》を言っているようにはみえない。 「よかったな、|鷹《たか》|塔《とう》。身元もわかりそうだし……。じゃ、そういうわけで、俺、学校行くけど……」  二人でゆっくりしろよと言って、階段を下りようとした京介の肩に、智の指がかかる。 「逃げる気ですか、ナルミさん。ずるいですよ」 「お、俺は関係ないだろ」  すがりつくような|瞳《ひとみ》が、じっと京介を見つめる。この|怖《こわ》そうなお姉さんと二人きりでおいていかないで、と頼みこむような表情に、ついほだされそうになる。 「わかったよ。……わかったから、そんな顔すんな」  どこまでも、お人よしの京介だった。      *    *  十何本目かのセーラムが、半分くらい吸いかけのまま、灰皿にひねりつぶされる。  フィルターには、どれも|深《しん》|紅《く》のルージュが|染《し》みついていた。  学校から少し離れたところにあるモスバーガー|諏訪東《すわひがし》店のなかである。  すでに二十分以上が経過している。  智と京介は、所在なくうつむいて、食べ終わったハンバーガーの包み紙を|眺《なが》めていた。  美女は、|百《もも》|瀬《せ》麗子と名乗った。  |戸《と》|山《やま》外語大の学生で、現在の身分は京介の高校——諏訪東高校の教育実習生。 「本当に何もかも覚えてないのね」  智にいくつか質問してみて、|呆《あき》れたようにこう|呟《つぶや》くのも、二十何度目かになる。 「|真《しん》|言《ごん》は? |祭《さい》|文《もん》は? JOA憲章は? みんな忘れちゃったの? バッカみたい。あなた、全部覚えて、一人前になるまで、何年かかったと思ってるの。九年よ、九年。修業した時間、全部パーにして、|情《なさ》けなくない?」  ヤケになったように、セーラムをまた一本口にくわえ、ライターの火を吸いこむ。 「もうやめたら、お姉さん。|肌《はだ》が荒れるぜ。健康な赤ちゃん産めなくなる」  京介が、ボソリと|呟《つぶや》いた。 「あたしに説教するんじゃないわよ、坊や」  かなり投げやりな返事。  智が京介の横から手をのばし、麗子の口もとのタバコを|強《ごう》|引《いん》にもぎとる。 「何すんのよ」 「説明、してください」  麗子は|綺《き》|麗《れい》にマニキュアを塗った右手で、|黒《くろ》|革《かわ》の手袋に包まれた左手をそっと|撫《な》でる。 「鷹塔智、年齢十六歳。元JOA所属の|陰陽師《おんみょうじ》。現在はJOAを脱会して、フリーで|退《たい》|魔《ま》・|浄霊《じょうれい》を|請《う》け|負《お》ってる。これじゃダメ? どう言えばわかるの?」  智は、震える指でセーラムを灰皿に押しつけ、不安げな|瞳《ひとみ》を宙にむける。 「オレ……|怖《こわ》いです。何も思い出せない。このまま、何もわからないままだったらどうしよう。帰る家も家族も知らないで生きていけるんだろうか。教えてほしいです……オレが誰か。毎日、何を考えて、何を望んで生きてきたのか……」  まだ少し青ざめた横顔は、必死に感情を殺している。子供のように泣き騒ぐのは、プライドが許さないのだろう。  だが、不自然なほどの冷静さは、よけいに痛々しく見える。  戦いに傷つき、近寄るものを|牙《きば》をむいて|威《い》|嚇《かく》する野生の|獣《けもの》のようだ。  麗子の張りつめた瞳がやわらぐ。 「ま、しょうがないか……。十六の坊やが、いきなり何もかも忘れちゃって、怖がるなってほうがおかしいのよね」 「あ、俺、追加オーダーしてきてもいいかな。けっこう|喉《のど》渇いたなあ、なんて」  京介はわざとらしく立ちあがり、そそくさとカウンターのほうへ行く。いちおう気をきかせているつもりだが、智はかえって|迷《めい》|惑《わく》そうな顔をしていた。  平日の昼間ということで、店内には数えるほどの人しかいない。カウンターのバイトの女の子も|暇《ひま》そうな顔をしている。  このまま智を麗子に押しつけて逃げようかとも思ったが、さっきのすがりつくような目を思い出すと、それもできない。  そういえば、今日は期末テストの|範《はん》|囲《い》の発表があることを思い出した。  京介は、追加オーダーしながら、この先、どうしようかと考えあぐねていた。  一方、麗子たちは、無言で|睨《にら》みあっている。やがて、|深《しん》|紅《く》の|唇《くちびる》が|笑《え》みをつくる。 「そういえば、こういう状態、前にもいっぺんあった。智、戦いであたしをかばって、力、使いすぎちゃってさ……。|傲《ごう》|慢《まん》な智が、いきなり|可愛《か わ い》い坊やちゃんみたいになっちゃって、あたし、|焦《あせ》りまくったっけ。そっかぁ……あれがまた起きたのね。ふーん……」 「どういうことです」 「あなたには|面《おも》|白《しろ》くないかもしれないけど、今の智、赤ん坊とか動物の子供とおんなじ。力がなくなってるぶん、周囲に|庇《ひ》|護《ご》|欲《よく》を起こさせる自己防衛機能が働いてるの。もともとルックスはいいし、そういう可愛い顔でニッコリ笑われたら、あたしもふらふらきちゃうなあ」  クククッと麗子は、|底《そこ》|意《い》|地《じ》の悪い笑いかたをする。からかわれているのだ。 「もとに戻るんですか」 「たぶんね。保証はしないけど」  麗子は、妙に落ち着きはらって、ふうっとセーラムの煙を吐きだした。  沈黙が続く。智は息苦しそうに麗子の視線をはずし、飲み終わったアイスコーヒーの氷をストローでつついていた。 「あの……百瀬先生」 「麗子よ。先生はやめて。ただの実習生なんだから」  京介が充分時間をかけ、コーラのトレイを持って戻ってくる。 「さて、行きましょ」  麗子が、黒いバッグを|抱《かか》えて立ちあがった。 「どこへ行くんです?」 「決まってるでしょ。智のマンション。こんなところで、これ以上つっこんだ話、できるわけないじゃない」  智と京介は、|慌《あわ》てて麗子の後ろ姿を追いかけた。      *    * 「じつは、依頼されて|怨霊《おんりょう》|封《ふう》じこめたフロッピー、盗まれてね。あたしと智で見つけて、依頼元にバレる前に処理するはずだった……」  かなり|強《ごう》|引《いん》に、麗子に案内されて、智と京介は、駅前に近い智の一人暮らしのマンションにやってきた。  ファッション雑誌にでも出てきそうな生活感のないモノトーンの部屋。ワンフロアーが丸ごと、智のものだという。  初めて入った時、京介は智の顔をマジマジと見てしまった。 (こいつの家は、何やってこんな部屋を借りてるんだ)  家賃だけで、なみのサラリーマンの月収を遥かに超えるに違いない。  智の一か月分の生活費を想像するだけで、四畳半・木造・|風《ふ》|呂《ろ》なしの|我《わ》が身とひきかえて、京介は思いっきりひがんでしまう。  智は、麗子からいちばん離れた窓ぎわのフローリングの|床《ゆか》に座りこみ、ぼんやりと遠くまで続く青空を|眺《なが》めていた。  頼りなげな横顔。さっきからひとことも口をきいていない。  さすがに十階ともなれば、見晴らしがいい。智の部屋の窓からは|新宿《しんじゅく》副都心の高層ビル群や|河田町《かわだちょう》のフジTVのマーク、エレベーターホールの横からは|池袋《いけぶくろ》のサンシャインビルが一望できた。  麗子は、途中の自販機で買ってきた|缶《かん》ビールを片手に、黒いカウチにもたれかかっていた。  教育実習をすっぽかして酒を飲むあたり、かなりワルだ。  京介は、たてつづけにいろいろなことがあって、頭がボーッとしている。今なら何を聞かされても、ああ、そういうこともあるかもしれないな、と思ってしまう。  |超常《ちょうじょう》現象なんか一生|無《む》|縁《えん》だと思ってたのに、|今朝《け さ》から別世界に迷いこんでしまったような気がする。  あっというまに缶ビール二本を|空《から》にした麗子が、横目で京介を見る。 「水くれる? |鳴《なる》|海《み》|君《くん》……だっけ?」 「京介でいいよ」  京介は、勝手に鷹塔家のキッチンを探して、クマのマグカップを発見すると、八分目まで水を入れて戻ってくる。|我《われ》ながら人がいいと思ったが、麗子の要求は、ことさらに態度を荒らげて|拒《きょ》|絶《ぜつ》するほどのことでもないような気がした。  友人の誰かには、だからおまえはナメられるんだ、と言われたような覚えもあるが、女には強く出られない性格なのだから、しようがない。 「はい、麗子さん」 「ありがと」  |深《しん》|紅《く》のルージュを塗った|唇《くちびる》が、小さく動く。 「ごめんね……京介君には|迷《めい》|惑《わく》かけてる。そのうち、埋めあわせするわ」  マグカップの水をいっき飲みし、ホッと息を吐く。 「あのね、JOA……財団法人|日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》っていうのが|港区《みなとく》にあるんだ。全国の|霊能力者《れいのうりょくしゃ》たちを管理・教育してる。で、くわしいことは、はしょるけど、あたしたちはその財団の元職員なわけ。今は独立して、あたしは|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》い、智は|陰陽師《おんみょうじ》として有料で|怨霊封《おんりょうふう》じとか|浄魔《じょうま》とか|請《う》け|負《お》ってるんだけど」 「いぬがみつかい……おんみょーじ……?」  聞き慣れない単語だ。字が思い浮かばない。 「|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いに|陰陽師《おんみょうじ》よ。まあ、使う術の種類が違うだけで、仕事そのものは同じ——いわゆる|退《たい》|魔《ま》・|浄霊《じょうれい》」 「……はあ」  幼稚園の頃からずっとオカルト嫌いで通してきた身には、そのへんの単語はよくわからない。まあ、わかる必要なんかないさ、と納得し、京介は自分を|慰《なぐさ》めた。 (嫌いなんだから、興味が持てなくたってしようがない。知らないのは、俺が無知なせいじゃない) 「今回、あたしのバッグごと盗まれたフロッピーには、|桜《さくら》の|怨霊《おんりょう》が入ってるの。もともとは、|群《ぐん》|馬《ま》のほうの神社の|境《けい》|内《だい》にあった|御《ご》|神《しん》|木《ぼく》なんだけど。社殿の改築工事で切り倒されてからは、工事関係者に|祟《たた》りがあいついだのよ。調べたら、御神木の内部から、|丑《うし》の|刻《こく》|参《まい》りの|釘《くぎ》が三百数十本出てきたって。つもりつもった|怨《おん》|念《ねん》を吸ったら、ただの|木《す》|霊《だま》もけっこうパワフルな怨霊になるのね。早いとこ|浄化《じょうか》しないとマズいんだけど、あたしには|封《ふう》|印《いん》の力しかないし。で、フロッピー|盗人《ぬすっと》の|行《ゆく》|方《え》を|探《たん》|査《さ》したら、|諏訪東《すわひがし》高校二年の|黒《くろ》|木《き》って子だってわかって。で、仕方ないから、|秘《ひ》|密《みつ》|裏《り》にフロッピーを取りかえそうっていうんで、あたしは教育実習生、智は転校生ってことで諏訪東高校に潜入することにしたわけ」 「何、それ……」  京介は薄笑いを浮かべてしまう。 「信じない? でも、さっきのあの|呪《じゅ》|火《か》と|幽《ゆう》|鬼《き》は|視《み》えたでしょ」 「呪火……?」 「智を|狙《ねら》った攻撃だわ。けっこう、こいつ、敵が多いからね。たぶん、こいつが|記《き》|憶《おく》を失ったことを知ってて、この|隙《すき》に乗じて殺そうとしたのよ」 「|冗談《じょうだん》……サイキック・バトルかよ……」  お次は、世界征服を|企《たく》らむ悪の組織の登場か。そのうち、麗子の祖父のマッド・サイエンティストや富士山の見える秘密基地が出てきたら大笑いだ。  プシッと音がした。智が|缶《かん》ビールのプルトップを引いて、麗子に差しだす。 「飲みが足りないみたいですね、麗子さん」 「|嘘《うそ》だと思ってるわね」 「オレは、陰陽師とか、そんなもんじゃありません」 「覚えてないくせに」 「だいたい、陰陽師ってなんですか」  麗子は、疲れたように肩をすくめた。 「もともとは、|卜《ぼく》|占《せん》や天文を専門にしていた職業集団のことよ。平安期以降は|呪《じゅ》|咀《そ》や退魔、|除災招福《じょさいしょうふく》が専門。仕事は、もっぱら怨霊や|魔《ま》|物《もの》相手に|真《しん》|言《ごん》|唱《とな》えたり、|呪《じゅ》|符《ふ》使ったり。……あなたは、この世界で超一流と言われていたわ」  長い沈黙がある。  やがて、麗子はクマのマグカップを両手に包みこんだまま、低い声で|呟《つぶや》いた。 「本当はね、今日、智と学校で合流して、その犯人の黒木って子と接触するはずだった。でも智が来なかったし、しょうがないから、単独で声かけたのよ」 「F組の黒木|晋《しん》|一《いち》? マジ? 麗子さんは来たばっかで知らないかもしれないけど、相手が悪いぜ。黒木ってさあ、どっかの|若頭《わかがしら》に|可愛《か わ い》がられてて、卒業したら|盃《さかずき》もらう約束してるって|噂《うわさ》だぜ」 「そうね。こっちの足もと見てきたわ。そんなに大事なフロッピーなら、返してほしければ金出せってね」 「で、どうしたのさ」  麗子は目を伏せた。 「百万、現金で目の前に積んでやったわよ。……だって腹たったんだもの。お金の価値もわかってない子供のくせに、百万で手を打とうか、だってさ。……信じられない。|生《なま》|意《い》|気《き》よ」 「バカじゃねえか!」  京介は大声をあげて立ちあがる。麗子の驚いたような顔に、さすがに|我《われ》にかえってカウチに座り、小声でささやく。 「だってバカだよ、お姉さん。マジ? 言いなりに金出して……そんなのってあり?」 「お金で解決できるなら、それはそれでいいじゃない。べつに百万くらい、どうってことないし。なんだかんだ悪ぶってても、しょせん子供よね。お願い、返してって、ちょっと涙ぐんでみせたら、コロッと|騙《だま》されてさ。あたしから現金、ゆすりとったと思ってんのよ。……この麗子さんも、甘くみられたもんだわ」 「そういうやり方って、よくないんじゃないですか」  智が、|缶《かん》ビールをコトンと|床《ゆか》に置く。 「もっとちゃんと話しあって、返してもらったほうが……」 「あたし、今は|面《めん》|倒《どう》な交渉なんかしたくない。そんな気分じゃないよ……」  たしかに、彼女が落ち込んでいるのは|傍《はた》|目《め》にもわかる。  智は、|呆《あき》れたようにため息をついた。 「それで、返してもらったんですか、フロッピー」  麗子は、智が|床《ゆか》に置いた|缶《かん》ビールに手をのばす。 「まだよ」 「いつ返してもらえるんです?」 「明日……放課後、体育用具置き場で」 「体育用具置き場? けっこうヤバそうな場所じゃん。それでOKしたわけ? このまま、金持ってシカトされたら、どうすんだよ」  麗子は、三本目のビールをあけながら、ふふんと鼻で笑う。 「そこはぬかりないわよ。今夜、あいつ、すごい悪夢、見ることになってるからね。ビビッて、金は返すから、どうかフロッピー引き取ってくださいって、泣きついてくるわよ」  智が、ふう、とため息をついた。 「話としては|面《おも》|白《しろ》いですね」  麗子が素早く智を見る。 「本当なんだってば。信じてちょうだい」 「オレ、自分が|陰陽師《おんみょうじ》だって実感もないし、あなたのことも覚えてないです。こんなに何もわからない状態で、変なことには巻きこまれたくないんです……すいませんけど」  麗子の表情が|強《こわ》ばった。 「智……あたし、どうあっても、あなたの|記《き》|憶《おく》が戻らないと困るのよ。怒らないでね」  麗子は、|不《ぶ》|器《き》|用《よう》に左手の|革《かわ》手袋をはずした。  一瞬、智と京介は目を疑った。麗子の左手が、手首から|爪《つめ》|先《さき》まで|緋《ひ》|色《いろ》に|染《そ》まっている。  |痣《あざ》や内出血の色ではない。そこだけ着色したような、|鮮《あざ》やかな赤。もう一枚、緋色の手袋をはめているようにも見える。  片手だけ不自然に革手袋で隠していたのは、この色のせいか。 「麗子さん……これ……」  ためらいがちに尋ねる京介を、麗子は目で制する。 「ナウマクサマンダ・ボダナン・キリカ・ソワカ……ナウマクサマンダ・ボダナン……」  早口の|真《しん》|言《ごん》。ふいに、緋色の皮膚が、ぺろりとめくれあがったように見えた。 「え……?」  めくれあがった皮膚は、縮みあがり、まるまって、緋色のピンポン玉のような形になる。  緋色の皮膚のめくれた下には、ごく薄い皮膚があって、筋肉組織と血管が|透《す》けて見えた。 「オン・アラハシャノウ……|犬神招来《いぬがみしょうらい》」  ピンポン玉がザワッと震え、いきなり|尖《とが》った頭とふさふさした|尻尾《し っ ぽ》、四本の|脚《あし》がポンポンポンッと突きだす。  サイズはものすごく小さいが、全体のラインは|狐《きつね》に似ている。  麗子は、続いて数枚の|呪《じゅ》|符《ふ》を取り出す。 「ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワカタヤ・ウンタラタカンマン!」  白い指が素早くいくつかの|印《いん》を結んでいく。  まばゆい|紫《むらさき》の光を発して、|呪《じゅ》|符《ふ》が智にむかって飛ぶ。 「ちょっと……麗子さん! 待って!」  |緋《ひ》|色《いろ》の|霊獣《れいじゅう》も、|鋭《するど》い|牙《きば》をクワッとむきだしにして、宙に舞いあがった。重さのないもののような動きだ。  そのまま|犬《いぬ》|神《がみ》は、急降下して智に襲いかかった。  ギイィーッ! と|耳《みみ》|障《ざわ》りな鳴き声が響きわたる。 「やめ……てくださ……っ!」  紫に光る呪符が智の体にペタリと|貼《は》りつく。  智が目を大きく見ひらき、霊獣の牙から|喉《のど》をかばうように両手をあげる。 「う……っ!」 「やめろっ! 殺す気か!?」 「黙って、|京介君《きょうすけくん》!」  鋭い麗子の叫び。  呪符に|霊《れい》|縛《ばく》された智が、苦しげに顔をしかめ、のろのろと腕を持ちあげようとする。 「ノウマクサラバラタタ・ギャテイヤクサラバ・ボケイビャクサラバ・タタラセンダ・マカロシャケンギャキサラバ・ビキナンウンタラタ・カンマン!」  麗子は、|容《よう》|赦《しゃ》なく|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》えつづける。  ピシ……ッ! と銀色のプラズマのようなものが、智の体の周囲で|弾《はじ》けた。呪符から出る光が編み目のような形になり、紫の光の|篭《かご》をつくる。 「う……わあああああーっ!」  智の喉から、すさまじい叫びがもれた。 「鷹塔ーっ! うわああああーっ!」  智を助けようと光の篭に飛びかかった京介の目の前で、紫の光がスパークする。全身に激痛が走り、一瞬、息ができなくなった。 「う……!」  これと同じ痛みを智が感じている。ほうっておくわけにはいかない。 「動かないで、京介君! 死ぬわよ! あなたは|素人《しろうと》なんだから、引っこんでいて!」 「やめろ……麗子さん! 鷹塔が死んじまう……!」  京介は、立っていられなくなって、フローリングの|床《ゆか》に|片《かた》|膝《ひざ》をついた。 「黙って!」  智の喉もとに、緋色の霊獣が食らいつこうとする。 「来るなああああああーっ!」  |刹《せつ》|那《な》、|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の|陰陽師《おんみょうじ》の指が、|雷《いかずち》より速く動いた。|九《く》|字《じ》を切る。 「|臨兵闘者皆陣裂在前《りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん》! |破《は》|邪《じゃ》!」  確かな発音。  バチバチバチッ……!  青い|霊《れい》|光《こう》が智の体から四方にほとばしり、すべての|呪《じゅ》|符《ふ》を|弾《はじ》き飛ばした。  呪符は空中でねじれたかと思うと、次の瞬間、真っ黒な|炎《ほのお》をあげて焼け落ちた。  同時に、|紫《むらさき》の光の|篭《かご》も消えた。 「鷹塔……!」 「なんてこと……するんです……オレを、殺す気ですか」  きつい|瞳《ひとみ》で麗子を|睨《にら》む智の顔が、ふいに放心したようになる。目の|焦点《しょうてん》があわなくなった。 「鷹塔っ!」 「う……くっ……!」  少年の体はよろめき、ガクッとフローリングの|床《ゆか》にくずおれた。  |緋《ひ》|色《いろ》の|霊獣《れいじゅう》は、麗子の肩に舞い降りて、ビーズ玉のような真っ黒の目をしきりに動かしている。もう攻撃する様子はない。  麗子は、智のそばに|膝《ひざ》をつき、その髪をそっと|撫《な》でた。 「ごめんねぇ……智。確かめたかったの。でも……よかった。まだ体が術を覚えてるのね」  京介は、思わずその場にヘタヘタと座りこみそうになった。 (なんて凶暴な女だ。一歩間違えば、死人が出てる) 「信じられない……そこまでやるか、普通!」 「ほかに確かめようないでしょ」 「まかり間違って死んだら、どうすんだよっ! ごめんじゃすまないぞ!」 「あたしがそんなミスすると思う? ダメージは最小限に抑えたわよ」  麗子は、手ぎわよく智の首の脈をはかり、小さくうなずく。 「調べなきゃいけなかったの。智の|霊力《れいりょく》が、どのレベルまで|封《ふう》|印《いん》されてるのか。いちばん深い|魂《たましい》のレベルで封印されてたら、もうあたしの手にはおえないわ。でも、今のだと、封印されてるのは霊力じゃないわ。霊力は手つかず。|記《き》|憶《おく》だけが封印されてる。これなら、まだ望みはあるわ。幸い、ものを封じるってことに関しては、あたしの専門だし」  智が|片《かた》|肘《ひじ》をついて、ゆっくりと身を起こす。麗子を見つめる|瞳《ひとみ》に、希望の光があった。 「オレの記憶……戻るんですか」 「霊的なブロックがかかってるから、はずすのに時間かかると思うけど。たぶんね……」  ホッとしたように、智は京介を見、微笑した。つられて、京介も|笑《え》みをかえす。     第四章 |怨霊《おんりょう》出現  その頃、問題のフロッピーは、真昼の|西武新宿線《せいぶしんじゅくせん》に乗せられて、終着駅新宿をめざしていた。 「|黒《くろ》|木《き》君がワープロに興味示すなんて、変だと思ったんだ」  髪の長い|陰《いん》|気《き》な少女が、|吊《つ》り|革《かわ》をつかんだまま、小さな声で|呟《つぶや》いた。  セーラー服を着た体は、かわいそうなくらいガリガリに|痩《や》せている。  顔の左半分を|覆《おお》う長い髪の下に、時々、赤っぽい|火傷《や け ど》の|痕《あと》が見え隠れした。気をつけて隠しているのだろうが、それがわかるだけに、よけい|哀《あわ》れをさそった。 「学校サボッてデートしようなんて言うから……一瞬、本気にしそうになっちゃった」 「|嘘《うそ》、嘘、ワープロは|口《こう》|実《じつ》。ホント言うと|牧《まき》|村《むら》のこと、俺、ずーっと前から目ぇつけてたんだぜ」  陽気な声が言いかえす。 「なんかいっつも詩集|抱《かか》えてて、|神《しん》|秘《ぴ》|的《てき》じゃん。|噂《うわさ》、聞いたんだけど、詩人志望ってマジ?」 「……うん」  平日の昼間の車内は、ガラガラに|空《す》いていた。  黒木と呼ばれた少年は、|幼《おさな》い顔のくせに、首から肩につながるあたりの線に妙に|雄《おす》の|匂《にお》いをさせていた。メッシュをかけた前髪を目もとまでたらし、ひらいたシャツの|衿《えり》もとに、太い金のネックレスをのぞかせる。  |軽《けい》|薄《はく》。最初の印象がそれだ。次に軽薄なだけではない|蛇《へび》のように|冷《れい》|酷《こく》な目の色に気づく。 「それにしても百万だぜ、あのバカ女。もっとふっかけて二百万って言っても、出したかもな」  一方だけが|声《こわ》|高《だか》な会話が、シンと静まりかえった車両に響きわたる。 「|百《もも》|瀬《せ》先生だっけ? 変な人よね……すごく美人だけど」 「いきなり|血《けっ》|相《そう》変えてきて、『黒木君、君の持ってるフロッピー返してほしいんだけど』だって。『大事なものなの』なんて涙ぐんでやんの」  黒木は、ぶ厚い|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めて笑った。 「教育実習生ってったら大学生だろ。それがなんで、百万も|即《そっ》|金《きん》でポンと出せると思う? 俺、けっこうマジで|好《こう》|奇《き》|心《しん》そそられたわ」 「案外、お水のバイトやってるのかも」 「お、牧村がそんなこと言うとは思わなかった」  ほどよく日に焼けた指が、少女のやわらかな髪をすきあげる。  隠していた|頬《ほお》の|火傷《や け ど》の|痕《あと》があらわになる。 「やだ……!」  |冴《さえ》|子《こ》は黒木の手を勢いよくはねのけた。 「見ないで……あたし、みっともないから」 「牧村でも、自分の顔、気にするわけ」  ケタケタ笑う黒木に罪の意識はない。冴子の|瞳《ひとみ》に|憎《ぞう》|悪《お》が揺らめいて、消えた。 「黒木君、行くの、|丸《まる》|井《い》インテリア館よりは、ヨドガワカメラにしない? 手あたりしだいワープロにつっこんで、フロッピーの中身読みだしてみるんなら、機種が多い専門店のほうが便利だし。入力した時、どの機種使ってたかわからないんでしょ?」 「機種が違うと、中身、読みだせないのか?」 「ほとんどフロッピーの|互《ご》|換《かん》|性《せい》ないの、今のワープロは。超不便で許せない」  黒木は、急に|饒舌《じょうぜつ》になった冴子の横顔をまじまじと見つめた。火傷の痕のない右の顔だけ見れば、アイドル顔負けの美少女だ。奇妙な笑いが少年の|唇《くちびる》に浮かぶ。  百万の値がついたフロッピーが手もとにあると、悪友どもに|吹聴《ふいちょう》しているうちに、中身を調べてみようという話になった。ことによっては、フロッピーのコピーを作って、あとあと、ゆすりの|種《たね》にできるかもしれない。  だが、黒木自身はワープロに|触《さわ》ったことさえない。  悪友どものなかにも、本格的な経験者は|皆《かい》|無《む》。  ワープロにくわしくて、口の固い者、という人選の結果、彼女、牧村冴子が協力者候補として浮上してきた。  クラス一暗そうな性格で、成績がよく、|噂《うわさ》では詩人志望。  黒木が、いちばん|苦《にが》|手《て》で|敬《けい》|遠《えん》してしまうタイプだ。  それにかまわず|打《だ》|診《しん》したのは、半分はフロッピーの中身への|好《こう》|奇《き》|心《しん》。  あとの半分は、牧村冴子本人に|下《げ》|衆《す》な興味を持ったからだ。  顔の火傷の痕は、中学一年の時、ふった男に|逆《さか》|恨《うら》みされ、公園に呼び出されてガソリンをかけられ、ライターの火をつけられたのだ、という。  体のほかの部分の火傷は、皮膚の移植が成功したが、顔だけは皮膚が根づかず、はがれ落ちてしまったのだそうだ。その時の火傷がもとで、彼女は一年休学している。 「あとでなんか|奢《おご》るわ。時間あるんだろ。昼メシつきあえよ」 「でも……午後は授業に戻らないと……テスト|範《はん》|囲《い》発表だし」 「げ……|真《ま》|面《じ》|目《め》じゃーん」  |嘲《あざけ》るような黒木の瞳。冴子の|頬《ほお》がカッと熱くなる。 「ううん、いい。つきあうわ。一日くらい休んでも、成績に響かないし」 「酒でも?」 「いいわよ……お酒でも」 「話せるじゃん」  黒木は、クスクス笑う。  JR|新《しん》|大《おお》|久《く》|保《ぼ》駅を横目で見て、黄色い電車はノンストップで|西武新宿《せいぶしんじゅく》駅に|滑《すべ》りこんだ。  黒木と冴子が乗ってきた電車は、折り返し、|本《ほん》|川《かわ》|越《ごえ》行きの準急になる。  黒木と冴子は、西武新宿駅から|靖《やす》|国《くに》|通《どお》りをこえ、JR新宿駅のほうへむかう。  混雑する新宿通りに入ると、さくらやの大きな|看《かん》|板《ばん》が目に飛びこんできた。  ヨドガワカメラに|固《こ》|執《しつ》する冴子が、さくらやの前を素通りする。  ヨドガワカメラ新宿東口店に着くと、黒木がゲーム売り場にひっかかった。百万円全部、ゲームソフトに|費《つい》やすべきか迷ったあげく、冴子に遠慮がちに止められて思いなおす。  三十分後、黒木と冴子はフロッピーを手にして、数十台のワープロの前にいた。  冴子は、店員の目を盗んで、展示してあるワープロにフロッピーを差しこんだ。  手早くキーを|叩《たた》く。 「『|書《しょ》|院《いん》』じゃないみたい。一般家庭への|普及《ふきゅう》台数が、いちばん多いって聞いたんだけど……違うのかな」  物珍しそうに近くのパソコンのディスプレーを|眺《なが》めていた黒木は、突然、パンという小さな破裂音を聞いた。  そして、冴子がヒッと息をのむ|気《け》|配《はい》。 「どうした、牧村……」  音源のほうにふりかえった瞬間、店内をカマイタチが走った。すさまじい音をたてて、壁や|陳《ちん》|列《れつ》|棚《だな》が切り|裂《さ》かれ、パソコンの本体が火を吹く。 「きゃあああああーっ!」 「火事だっ!」  |右《う》|往《おう》|左《さ》|往《おう》する店員と、OA機器のフロアにいた十数名の客がぶつかりあい、階段を転がるように下りていく。  火災発生時の責任者が大声で誘導しているが、誰もそんなものは聞いていない。  冴子は、フロッピーを入れた『書院』を|凝視《ぎょうし》しながら、ゆっくりと|床《ゆか》にへたりこんでいった。|茫《ぼう》|然《ぜん》と上をむくと、顔の左半分の|火傷《や け ど》があらわになる。  液晶のディスプレーから、数十本の黒い|触手《しょくしゅ》が|這《は》い出してくる。  熱と煙に反応して、スプリンクラーが作動しはじめた。  黒木は、後ずさりしながら、冴子を見つめた。全身が総毛立っている。 「牧村、なんだ……これは……なんだ」 「黒木君……どうしよう……」  冴子の目は、宙でのたうつ|触手《しょくしゅ》に|釘《くぎ》づけになっている。  腰がぬけたのか、立ちあがろうともしない。 「助けて……!」 「い、|嫌《いや》だ……できねえよ! 俺、行くからな! な、おまえは自力で逃げろよ!」 「黒木君、誰か呼んできて……。あたし、死んじゃう。嫌だよう……死ぬのは嫌ぁ……」 「勝手に死ねよ」  黒木は言い捨てるなり、あとも見ずに走りだした。 「黒木君っ!」  絶望の|瞳《ひとみ》が黒木の後ろ姿を追う。  のびた一本の触手が、冴子の首に巻きついた。  悲鳴をあげる口をふさぐように、別の触手がのびてくる。 「やっ……ああああーっ!」  |淫《みだ》らに|蠢《うごめ》く触手が冴子の腰や腕を|捕《と》らえ、ズルズルとディスプレーのなかに引きこもうとする。  黒木はもう恥も|外《がい》|聞《ぶん》もなく、悲鳴をあげて、階段を転がるように下りはじめた。  なんと形容していいのかわからない|濡《ぬ》れたような音と一緒に、冴子の悲鳴が消えた。  |不《ぶ》|気《き》|味《み》な|静寂《せいじゃく》。  一瞬後、再びカマイタチが三十数台のワープロを切り|裂《さ》いた。  黒木の後ろから、血まみれの|触手《しょくしゅ》が追ってくる。足首にからみつく。 「うわああああああーっ!」  |刹《せつ》|那《な》、全館のブレーカーが落ちた。  店内は真の|闇《やみ》となった。      *    * 「|新宿《しんじゅく》で異常な|霊《れい》|波《は》を感知。スクランブルかけましょうか」 「霊波の特定が先だ!」 「三級管制を二級に! |日《にっ》|光《こう》と|伊《い》|勢《せ》の調査室にも連絡して!」 「はっ!」  東京タワーの真正面にある財団法人|日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》ビルの一室が、にわかに|慌《あわ》ただしくなる。  この国の|霊能力者《れいのうりょくしゃ》たちの情報管理と、|退《たい》|魔《ま》関係の業務を担当する情報局情報一課である。  観葉植物が置かれたクリームイエローの室内に、いくつもの電話のベルが鳴り響く。 「ああ、だから、霊波の特定を急ぐように……え? |伊《い》|勢《せ》から直通? ちょっと待ってもらって」  デスクに座っていた三十代くらいの男が、背後の|気《け》|配《はい》に受話器を置いてふりむく。  徹夜続きなのか、目の下に|隈《くま》ができて、ゴワゴワの髪は|逆《さか》|立《だ》っていた。くたくたのワイシャツに、ピンクと黄色の趣味の悪いネクタイをしている。 「忙しそうだな、|滝《たき》|川《がわ》さん」 「あ……|時《とき》|田《た》先生。これはどうも……」  このフロアに入るには、財団の職員であっても、通常のIDカードのチェックのみならず、|声《せい》|紋《もん》と|網《もう》|膜《まく》パターンのチェックが加わる。フリーパスで入ってこられる人間は数少ない。  その数少ない人間のうちの一人が、目の前にいた。  白衣姿の若き|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》。医療行為にたずさわる身でありながら、薄茶の髪を長くのばしている。銀ブチ|眼鏡《め が ね》のむこうから滝川を|眺《なが》めるハシバミ色の|瞳《ひとみ》は、ボーッとしていて、眠そうだ。身長があるわりには、あまり|貫《かん》|禄《ろく》がない。 「|新宿《しんじゅく》か、騒ぎは」 「あ、お耳が早いですね。十五分くらい前かな、霊波計が大きくふれましてね、今、調査中です」 「心配はいらんよ。霊波のもとは、君が百瀬|麗《れい》|子《こ》に依頼した|桜《さくら》の|怨霊《おんりょう》だ」 「え……霊波の種類がおわかりで?」 「わたしも時田一門の|端《はし》くれだからな」 「先生が|心霊治療《しんれいちりょう》以外の力をお持ちだとは……いや、そうですか。しかし、あの怨霊は十日ほど前に、|群《ぐん》|馬《ま》のほうで|封《ふう》|印《いん》されたはずですよ。確か、百瀬から連絡が入っています」 「それが、運悪く解放されたということだ。……ほうっておきたまえ。大事には至らない」 「しかし、先生……これは私どもの仕事ですから」  時田は、同情するように微笑した。 「ご苦労だな」  白い手が銀ブチ|眼鏡《め が ね》の|縁《ふち》に触れる。ゆっくりと眼鏡をはずす。ハシバミ色の|瞳《ひとみ》が|鮮《あざ》やかなエメラルドグリーンの|邪《じゃ》|眼《がん》に変わる。邪眼は、滝川の視線を|捕《と》らえ、|呪《じゅ》|縛《ばく》した。 「あ……」 「どうした、滝川さん。だいぶお疲れのようだが」  銀ブチ眼鏡がもとの位置に戻る。瞳の色がエメラルドグリーンから薄い茶色に変わった。  滝川は、夢から覚めたように頭をふり、目をパチクリさせた。 「お恥ずかしい。どうも、ど忘れしたようです。……なんのお話でしたっけ」 「|新宿《しんじゅく》で発生した|霊《れい》|波《は》の話だ」 「ああ、あれは、たいしたことないでしょうなあ。|探《たん》|査《さ》するまでもないでしょう」  |滝《たき》|川《がわ》は、ふいに自分の発言を|訝《いぶか》しがるような顔になった。不自然な|間《ま》がある。  時田が、|誘《さそ》いこむように微笑する。 「スクランブルをかけずにすんでよかったな、滝川さん。たいしたことのない霊波[#「たいしたことのない霊波」に傍点]で」 「いや、助かります。正直言いまして、不用意にスクランブルをかけると経費がかさみましてね。|第《だい》|一《いち》|四《し》|半《はん》|期《き》の業績も落ち込んでいるところですし……」 「苦労はお察しするよ」 「先生の医局のスタッフがうらやましいですよ。万年赤字知らずですからね」  |嫉《しっ》|妬《と》と|羨《せん》|望《ぼう》の色が、滝川の疲れた顔をよぎる。すでに、時田の意見に異を|唱《とな》えていたことなど、ゴワゴワの頭のなかから|完《かん》|璧《ぺき》に消え|失《う》せている。 「|暇《ひま》なとき、医局に来たまえ。君の治療は、職員割引にしてあげよう」  時田は|愛《あい》|想《そ》よく笑い、|踵《きびす》をかえした。  滝川に背をむけたとたん、銀ブチ|眼鏡《め が ね》のむこうの|瞳《ひとみ》が、氷のように冷えた。ボーッとした顔が別人のような|歪《ゆが》んだ|笑《え》みを浮かべる。  医局——|心霊治療《しんれいちりょう》センターへ戻るエレベーターに乗りこみ、壁にもたれると、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》はゆっくりと目を閉じた。 「さあ……JOAの動きは|封《ふう》じたぞ。どう出る、|智《さとる》」  低い|呟《つぶや》きは、誰の耳にも届かない。      *    *  緑のマウンテンバイクが、|諏訪東《すわひがし》高校の校門をくぐった。  |無《む》|謀《ぼう》にも二人乗りしている。  昼休みも終わりに近い二年D組の教室が、急に騒がしくなった。 「午後から来た転校生、うちのクラスだって!」  ポニーテールの少女が、ピョンピョン|跳《は》ねるような足どりで、教室に駆けこんでくる。  入り口のあたりでじゃれていた数人の男子が、驚いたように彼女に場所をあけた。 「それでね、すっごい|美《び》|形《けい》なのぉ!」 「またぁ……|桃《もも》|子《こ》のメンクイがはじまった」  口もとにホクロのある少女が、窓ぎわで長い髪にブラシをかけながら、クスクス笑う。 「違うのよう! 今度のは本物の美形なんだってば!」 「先月は、|鳴《なる》|海《み》を美形だって騒いでなかった? あんたの趣味って、ちょっとはずれてんのよね」 「えーっ! |京介《きょうすけ》サマが|美《び》|形《けい》に見えない? |里《り》|香《か》、目腐ってるよ」 「これだよ。恋する|乙《おと》|女《め》……」 「里香に|他人《ひ と》のこと言えた義理? 体育の|山《やま》|西《にし》がいいなんてぇ。あんな頭悪そうな男、やめなよう」 「あたしは、男は筋肉だという主義でございますからぁ。やっぱり、そのへんの高校生なんか、あたしに言わせると体がちゃちで、ぜーんぜんアウト・オブ・眼中よん。その点、山西、いいじゃーん」 「……筋肉が?」 「とーぜんっ!」  |桃《もも》|子《こ》はガクッと肩を落とした。 「|嫌《いや》、嫌っ! 男は美形じゃなきゃ嫌よう」 「ま、いずれどんな美形も、よる|年《とし》|波《なみ》でブサイクな中年になるんだから」 「美しいまま老いてほしいっ!」  |拳《こぶし》を握りしめて力説する桃子の後ろから、別の少女が顔をのぞかせる。ショートカットで、ベッコウふうの|伊《だ》|達《て》|眼鏡《め が ね》をかけていた。 「やほー、お二人さん。転校生の最新情報いかがっすかぁ?」 「|弥《や》|生《よい》ちゃーん、ナイスッ! 聞く、聞くぅーっ!」  桃子がピョンピョン|跳《は》ねる。里香はケンゾーの|化粧《けしょう》ポーチにブラシをしまい、ピンクのリップスティックを取り出す。 「ガセだったら、怒るよ」 「情報料は、明日の数学の宿題か英語の訳。前契約よん、桃子ちゃん」 「がーん! 情報料とるのっ!? 高いっ! ……小論文の|代《だい》|筆《ひつ》じゃ、ダメ?」 「お|代《だい》|官《かん》さまも悪でございますなあ……じゃ、小論文で交渉成立」  弥生と呼ばれた少女はポンと手を打つ。 「あのね、|噂《うわさ》の転校生、鳴海の緑のマウンテンバイクで来たんだって」  ボーイッシュな顔が、|悪戯《いたずら》っぽく笑う。 「しかも、二人乗り。鳴海が転校生の後ろから、こう胸|抱《かか》えちゃってさぁ、フレームんとこに乗せてるの」 「やりぃ……初日から|同《どう》|伴《はん》? おいしいーっ! 美形同士ねっ!」  桃子は机に顔を伏せ、ジタバタする。 「やーん、|悶《もん》|絶《ぜつ》っ!」  里香と弥生は顔を見あわせた。  クスクスクスッ……と、うれしそうな|笑《え》みが伝染していく。 「それで、その転校生って本当に美形なの、弥生?」 「それがさ……モノホンの|極上《ごくじょう》の美少年。こりゃあ、女子のあいだで|争《そう》|奪《だつ》|戦《せん》激しくなるよ。明日でも兄貴のニコン借りてきて、|生《なま》|写《じゃ》|真《しん》隠し撮りしとこうかなぁ。二、三百枚売れるかも」  ジタバタしていた|桃《もも》|子《こ》が顔をあげる。 「ほら、あたしの言ったとおりじゃなぁーい! |里《り》|香《か》ってば、ひどいのよう! あたしの趣味がはずれてるって!」  里香はリップスティックのキャップを閉め、満足げに|弥《や》|生《よい》を見あげた。 「その転校生の名前は? 当然、もう調べはついてるんでしょ」  授業開始のチャイムが鳴りはじめた。ドヤドヤと教室へ戻ってくる制服の群れ。  弥生が灰色の生徒手帳をひろげ、パタンと閉じる。 「名前は……|鷹《たか》|塔《とう》智」      *    *  智は、この日、正式に京介のクラス——二年D組の一員となった。  智の自己紹介については、京介はひそかに心配していた。が、麗子は別れぎわに、必要なことを智に教えこんでいたらしい。 「鷹塔智です。|滋《し》|賀《が》の私立|真《ま》|野《の》|学《がく》|園《えん》高校から来ました。東京には祖父母が住んでいて、よく来たことがあります。よろしくお願いします」  智は|鉄《てつ》|面《めん》|皮《ぴ》な|本性《ほんしょう》などかけらも見せず、|教壇《きょうだん》に立った時には、終始|愛《あい》|想《そ》のいい|微笑《ほ ほ え》みを浮かべていた。  滋賀県出身だというのは、京介も|初《はつ》|耳《みみ》だ。さっき麗子に連れられていった智のマンションは、生活感こそなかったが、きちんと|整《せい》|頓《とん》されていて、最近引っ越してきたという感じではなかったのだが。  少し|鈍《にぶ》い担任は、智が|記《き》|憶《おく》を失っているのに気づかず、彼をクラスメートに紹介すると、|慌《あわ》ただしく次の授業に行ってしまった。  午前中は|矢《や》|継《つ》ぎ|早《ばや》に事件が起こったが、午後は何事もなく過ぎていくようだった。  男連中は智の|美《び》|貌《ぼう》をやっかんで、なんとなく遠まきにし、女生徒たちはそれとは別の意味で、離れたところから声を殺して智の|一《いっ》|挙《きょ》|一《いち》|動《どう》を見守っている。 「ほら、見て見て」  桃子が、すぐ前の里香の背をシャーペンの先でつつく。里香がふりかえると、教師に見えないように、こっそり指差す。 「さっきから、京介サマってば、鷹塔クンのことばっか気にしてるよ」 「あ、ホントだ」  つられて、周囲の女子たちも、チロリと同じ方向を盗み見た。  ドアに近い最前列の席でボーッとしている智と、後方の席からそれを心配そうに|眺《なが》める京介の姿がある。  制服が|間《ま》に合わない智は、白いコットンシャツとホワイトジーンズという白っぽい格好だ。夏服とはいえ、ズボンが黒で、スカートが|濃《のう》|紺《こん》の教室のなかにあって、智の姿はいやでも目立つ。 「決めたっ。あたし、京介サマと鷹塔クンの観察日記つけるわっ」  |桃《もも》|子《こ》が握り|拳《こぶし》をつくって、ひそかに決心した時だった。 「何か……来る……!」  智の手から、|缶《かん》ペンケースが転げ落ちた。  |派《は》|手《で》な音をたてて、教室の|床《ゆか》にシャーペンや|蛍《けい》|光《こう》ペンがぶちまけられる。  教室じゅうの視線が集中する。 「なんだぁ、鷹塔。転校早々で緊張しているのか?」  紺のスーツ姿の若い生物教師が、教科書のむこうから顔をのぞかせた。|頬《ほお》から|顎《あご》にかけて|髭《ひげ》の|剃《そ》り|跡《あと》が異様に青く、似合わないカルティエの|眼鏡《め が ね》をかけているので、独身のわりには女生徒には人気がない。授業内容は、りっしんべんのほうに|偏《かたよ》っているともっぱらの評判だ。 「すいません……」  智は|焦《あせ》って、床にしゃがみこみ、落ちた缶ペンケースに手をのばした。  その手が、いきなり|空《くう》をつかむ。 「……くっ……!」  ゆっくりと、胸を|鷲《わし》づかみにして転がる体。|弾《はず》みで、|椅《い》|子《す》がガタンと倒れる。  周囲から驚きの声と小さな悲鳴があがった。 「どうした、鷹塔!?」  生物教師が、教科書を持ったまま近よっていく。 「鷹塔! |大丈夫《だいじょうぶ》か? 君、前にこうなったことは?」 「わから、ない……」  智は背をまるめ、全身で椅子の背にすがりつく。  コットンシャツの背中が速い呼吸に波うっている。  京介は、|我《われ》知らず立ちあがっていた。  この智の状態は、|今朝《け さ》、京介のアパートの部屋が火事になる直前と同じだ。ただの|発《ほっ》|作《さ》ではないかもしれない。 「しっかりしろ! どこか痛むか!?」  教師が、|武《ぶ》|骨《こつ》な手を智の|腋《わき》と|膝《ひざ》の下につっこみ、女の子でも扱うように横抱きに持ちあげようとする。|勘《かん》|違《ちが》いもはなはだしい|奴《やつ》だ。 「やめて……ください……!」  本気で|嫌《いや》がっている顔を見たとたん、京介は智に走りより、教師とのあいだに割って入った。 (たぶん、これはオカルト関連だ。騒ぎにならないうちに、連れ出したほうがいい) 「先生、俺、保健室に連れていきます!」  ほとんど、教師から奪いとるようにして智の肩を|抱《かか》え、教室を出た。  智のプライドをおもんぱかって、背負ったほうが速くても、保健室まで歩かせる。  後ろから、授業を中断した教師がオロオロとついてくる。 「|大丈夫《だいじょうぶ》か。ひどいようなら、すぐに救急車を呼ばないと……」  責任問題になると、教師の顔に大きく書いてある。|小心者《しょうしんもの》め。 「大丈夫です。すぐおさまりますから」  智を無事に保健室に送り届け、少年が|空《あ》いたベッドに横になるのを確認すると、生物教師は養護教諭を探しにあたふたと出ていった。      *    *  保健室のなかには、二人しかいない。  清潔な室内には、消毒液と薬品の|匂《にお》いが|漂《ただよ》っていた。  呼ばれてやってきた養護教諭は、智の|容《よう》|体《だい》を|診《み》ると、しばらく寝かせておくよう指示して姿を消した。京介も授業に戻らなければならないのだが、ぐずぐずと保健室に居残っている。 「大丈夫か、鷹塔……」 「ナルミさん……すいません……」  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が京介を見あげる。ひどく|切《せつ》なげな表情に、京介の胸がドキリとした。 「|今朝《け さ》と同じだろ。……苦しみかたがさ」  智は、激痛に耐えるように|蒼《そう》|白《はく》な顔をしかめ、小さくうなずく。 「何かが……呼んでるんです……オレ、変だ……」 「|霊《れい》|感《かん》ってやつか」 「すごく苦しくて……胸が、痛い。悲しい……なんだろう……これ」 「鷹塔……」  どうしていいのかわからない。養護の先生も救急車を呼ぶように言わなかったし、そう深刻な病状じゃないんだろうけど、せめて|鎮《ちん》|痛《つう》|剤《ざい》でもくれればいいのに。 「少し眠れよ。……俺、いなくなったほうがいいかな」  京介は目を伏せて、尋ねる。智はタオルケットを頭まで引きあげ、京介に背をむけた。その姿勢のまま、もごもごと何か言う。 「え……?」 (やっぱり、苦しい時に誰かに話しかけられるのって|嫌《いや》なんだ)  京介は、音をたてないように|爪《つま》|先《さき》だって、そっと保健室を出ようとした。あとで様子を見にこよう、と思う。  ばすっ!  その背中にむかって、|枕《まくら》が投げつけられた。 「な……っ!」 「こんな恥ずかしいこと、二度も言わせるんですか! そばにいてって……言ってるじゃないですか!」  ベッドに起きあがった智が、顔を真っ赤にして|怒《ど》|鳴《な》る。 「あんた、人の話、聞いてない!」 「バカ! もごもご言ってるから聞こえねーんだ。はっきり言え、はっきり」 「こんなこと、はっきり言えますか!」  智は、なおも|怒《ど》|鳴《な》ろうとして、うっと息をのんだ。胸を|鷲《わし》づかみにする。 「ああ、わかった。興奮するな」  京介は病人に走りよって、よしよしと寝かしつける。  智は、なおもギラギラする|瞳《ひとみ》で、京介を|睨《にら》みつけている。 「オレ、あんた嫌いですよ」 「そっかぁ」 「本当に嫌いですからね」 「マジ? どのくらい嫌い?」  京介は、智の語気の激しさにちょっと|怯《ひる》んで尋ねる。 「気になりますか」  智は、|顎《あご》までタオルケットを引きあげて、満足そうに微笑した。 「けっこう、オレのこと気にしてたんだ」 「ちょっと……鷹塔」  それじゃ、答えになっていない。 「俺のこと嫌いなのか、本当に」 「じゃ、オレ、寝ますけど、ナルミさんはそばにいてくださいね」  智は、甘えるような目で京介を見あげ、目を閉じた。  京介は、巧妙にはぐらかされたような気がした。何かすっきりしない。  一分ほどたってから一度、智の瞳が薄く開く。京介が逃げていないのを確かめると、安心したようにまた目を閉じた。しばらくすると、静かな寝息が聞こえてきた。  無防備で|綺《き》|麗《れい》な寝顔を見ていると、まあ、いいか、という気分になった。  午後の日は傾き、やがて授業終了を告げるチャイムが鳴る。  結局、午前の授業も午後の授業も、ほとんどサボッてしまった。こんなことなら最初から家で寝ていればよかった。  養護教諭が戻ってきて、「七時には閉めるから、それまでに帰ってね」と言い残していく。  京介の腕時計が五時半を過ぎた頃、智が胸を押さえてうめきはじめる。 「どうした……また痛みだしたのか。|大丈夫《だいじょうぶ》か」 「だい……じょうぶです……」 「けど、さっきより苦しそうだぞ……おい。やっぱり病院行ったほうが……」 「く……うっ……!」  苦しげな智の表情に、京介は思わず目をそらしそうになった。  見ていられない。 「大丈夫か、おいっ!」 (こういう場合の応急処置って……確か、ワリバシか何かつっこんで、|舌《した》を|噛《か》まないようにして、胸もとをゆるめて……気道確保は意識がない時だっけ?)  保健体育の授業で教わったのを思い出そうとするが、混乱した頭では正確に思い出せない。 「鷹塔……しっかりしろよ」  胸の|鼓《こ》|動《どう》が速くなった。  助けを求めるように、智の手が京介にむかって差しだされる。 「ナルミさん……」  その手をつかむと、智は思いがけない力で握りかえしてくる。よっぽど|怖《こわ》かったんだろう。 「そばに……ナルミさん」 「ここにいるからな。|大丈夫《だいじょうぶ》だぞ」  智は、両手で京介の手にしがみついてきた。かえって苦しくさせはしないか……と思いつつ、安心させてやりたくて、京介は智の背に腕をまわした。少年二人は、ベッドの上で|抱《ほう》|擁《よう》しあうような体勢になる。 「大丈夫だからな、安心しろ」 「苦し……うっ……」  ギュッと京介の背中に両手がまわる。京介は、少しばかりあらぬことを想像して、うろたえた。 (こ、こんなことを考えている場合ではない……)  プルルルルルーッ! プルルルルルーッ!  突然、電話の呼び出し音が鳴った。京介の心臓が止まりそうになった。  |執《しつ》|拗《よう》な|甲《かん》|高《だか》い音は、養護教諭の机の上から聞こえてくる。  |焦《あせ》った京介は、つい条件反射で受話器に手をのばす。 「はい! |諏訪東《すわひがし》高校保健室です!」 「……京介君?」  ひどく遠くから聞こえてくるような麗子の声。京介の|頬《ほお》がカッと熱くなる。  このタイミングのよさはなんだろう。まるで、どこかから|覗《のぞ》き見ていたようじゃないか。 「京介君、どうしたの? 何かあった?」 「いや……べつに……。あの……鷹塔が急に苦しみだして……」  短い沈黙があった。 「そう……やっぱり、そっちにいったわね。いい、京介君、落ち着いて聞いてね。……フロッピーのなかの|怨霊《おんりょう》が解放されたの」     第五章 |中《なか》|臣《とみ》の|祭《さい》|文《もん》 「フロッピーのなかの|怨霊《おんりょう》が解放されたの」  |麗《れい》|子《こ》の声は、|穏《おだ》やかで優しい。  どこかの喫茶店からでもかけているのか、ジャズのメロディーが小さく聞こえる。  |京介《きょうすけ》は、笑いだしたいような|衝動《しょうどう》にかられた。  あまりにも非現実的な状況とセリフ。 「まぁた……こんな時に|冗談《じょうだん》言っちゃって……麗子さん」 「信じなくてもいいわ。でも、|智《さとる》の苦痛は、怨霊の感じてる苦痛なの。死ぬことはないけど、そのぶんほうっておくと、長く苦しむわ。待ってて、あたしもすぐ行くから」 「怨霊の苦痛って……どういうこと? そんな説明じゃ、俺、納得できない」  麗子は、小さくため息をついたようだった。 「智はね、怨霊や|魔《ま》|物《もの》の苦痛をダイレクトに感じる能力があるの。他人の感覚や感情を自分のもののように感じる|超能力《ちょうのうりょく》の一種に、|共感能力《エンパシー》っていうのがあるんだけど、智のはそれに近い。ただ、彼の場合、|感《かん》|応《のう》する相手が怨霊や魔物だったりするだけ|厄《やっ》|介《かい》だわ」 「怨霊や魔物……?」 「|大丈夫《だいじょうぶ》、死なないわ。相当苦しいはずだけど」  ぐったりと横たわった智が低くうめく。あおむいた|喉《のど》が、汗に|濡《ぬ》れている。倒れた時より|容《よう》|体《だい》が悪くなったようだ。 「は……う……っ! ぐ……!」  胸をかきむしる智の指に力がこもる。死なないと言われても、この状態を見ていると麗子の言葉が|嘘《うそ》のような気がしてきた。 「麗子さん、今、どこ? この状態があと三十分続くようなら、俺、救急車呼ぶからね!」  冷静な声を出そうとしたのに、最後は声が上ずってしまった。電話口から聞こえてくる麗子の声は、腹がたつほど落ち着きはらっている。 「今、|新宿《しんじゅく》よ。すごく道が|渋滞《じゅうたい》してるの。タクシーは無理だから、電車で帰る。……言っておくけど、あなたが|焦《あせ》っても仕方ないんですからね。しっかりしてよ、青少年」 「早く帰ってきて、麗子さん……」 「男なら、根性|据《す》えなさい。いいわね、坊や」  京介の焦りを|尻《しり》|目《め》に、電話は無情にもそのまま切れた。  麗子が駆けつけてきたのは、それから三十分後のことだった。 「ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワカタヤ……」  麗子が、早口の|真《しん》|言《ごん》を|唱《とな》える。手には|勾《まが》|玉《たま》のペンダントを持っている。  ヘッドの石は|紅水晶《ローズクオーツ》。いわゆるパワーストーンの|類《たぐい》だ。最近は、こういうのが|街《まち》|中《なか》でよく売られている。  数分で、智の呼吸がすっかり楽になった。  胸をかきむしる指から力がぬけ、顔色もよくなってくる。 「もう|大丈夫《だいじょうぶ》。|感《かん》|応《のう》能力を|封《ふう》じたわ」  麗子は、ふうっとため息をつき、サラサラのストレートヘアをかきあげた。  シャラン……と細い手首で金のバングルが鳴る。  その瞬間、京介は胸に|鋭《するど》い痛みを覚えた。  何本もの|錐《きり》をもみこまれるような激痛。  幼稚園からずっと健康優良児、|風邪《か ぜ》をひくのさえ数年に一度の身には、慣れない痛みがひどくこたえる。「苦しい、苦しい」と、耳もとにささやくような声が聞こえる。 「起きてちょうだい、智。すぐ|新宿《しんじゅく》行かなきゃマズいのよ。急いで」  麗子が勾玉をスーツのポケットに落としこみ、智の顔を|覗《のぞ》きこむ。 「新宿……?」 「|怨霊《おんりょう》、早く|封《ふう》|印《いん》しなきゃならないでしょ」 「なんで、オレがそんなことしなきゃいけないんですか」 「|記《き》|憶《おく》がなくても、|陰陽師《おんみょうじ》なら怨霊|退《たい》|治《じ》に行くのは当然。わかりきったこと|訊《き》かないで」 「|嫌《いや》です」 「智! |駄《だ》|々《だ》をこねないでよ。お願い。気分がまだよくないのは承知のうえで頼むわよ」 「オレ、あなたを助けられるような力、ないです」  智は、ゆっくりとベッドから|滑《すべ》りおり、きつい|瞳《ひとみ》で麗子を見つめる。 「頼む相手を間違えてませんか。オレは記憶|喪《そう》|失《しつ》だし、怨霊の封印なんてできない……」 「智……どうしたの。らしくないわ」  麗子の|瞳《ひとみ》が、驚きに見ひらかれる。 「あなた、そんな子じゃなかったでしょ。いつだって、オレが助けに行くからって……。まかせておけって言って、いちばんに飛び出して……」 「誤解してるようですね、|百《もも》|瀬《せ》さん。オレは、あなたの覚えてる|鷹《たか》|塔《とう》智じゃないんです」  宇宙空間の絶対|零《れい》|度《ど》より冷たい声。  麗子は、たじろいだように|唇《くちびる》に手をあてた。 「信じられない……今の智なんか、ただのガキじゃない……! |冗談《じょうだん》じゃないわよ! あたしが信頼してついてきたのは、こんな|情《なさ》けない坊やじゃない。智を返してよ。あたしの知ってる智を返して!」 「そんなこと……あなたみたいな|年《とし》|増《ま》に言われる|筋《すじ》|合《あ》い、ないです」 「と……年増ですってぇ!? この麗子さんをつかまえて年増とは何事!? ちょっと、智、あなた、|記《き》|憶《おく》がなくなったらずいぶん言いたいこと言ってくれるじゃないの!」 「年増でしょ、オレがガキなら」  智は唇を|歪《ゆが》め、冷ややかに言い放つ。麗子の顔色が変わった。 「いい|度胸《どきょう》してるじゃないの、鷹塔智」  グキッ!  黒い|革《かわ》手袋の手が、手近なベッドの金属の|枠《わく》をつかんだ。一瞬力をこめただけで握りつぶす。とんでもない|馬鹿力《ばかぢから》だ。  |不《ふ》|穏《おん》な|気《け》|配《はい》に、止めに入ろうとした京介は、|喉《のど》の奥で小さなうめき声をたてた。心臓の激痛が背中まで響き、冷や汗がにじみでてくる。 「いて……!」  パッと麗子が京介を見て、こちらに歩みよってくる。  すでに気分を切り替えたのか、黒目がちの|瞳《ひとみ》は真剣だ。 「どうしたの、京介君」 「痛い……心臓……」 「心臓ですって……?」  麗子が、|慌《あわ》てたように京介の手首をつかみ、脈をとるような|仕《し》|草《ぐさ》をする。  ふいに、彼女の表情が|強《こわ》ばった。 「マズいなあ……。転送されてるわ」 「俺、そんなに悪い……?」  このまま死んだらどうしよう。気のせいか、目の前が暗くなってきたようだ。 「ひたってるんじゃないわよ。あいにく、こんなもんじゃ死にません」  麗子は、|綺《き》|麗《れい》にマニキュアを塗った|爪《つめ》で、手荒く京介の手首に|呪《じゅ》|文《もん》を書く。 「くすぐったい……痛い……」 「男なら、ガタガタ言わないの。すぐによくなるわよ」  左手が、バッグに|滑《すべ》りこみ、一枚の|呪《じゅ》|符《ふ》を取りだす。右手は、京介の手首を握ったままだ。  明るい黄色の光を放つ呪符が、ペタリと京介の胸に押しあてられる。 「|禁《きん》|霊《れい》|応《のう》!」  麗子が|唱《とな》えると同時に、|嘘《うそ》のように苦痛が消えた。役割を果たした呪符は、光を失ってハラリと舞い落ちる。 「つ……!」  低いうめき声が、京介の耳をうつ。ギクリとしてふりかえると、今度は智が顔を|歪《ゆが》め、胸を押さえて保健室の|床《ゆか》にうずくまっていた。 「鷹塔……」 「|勾《まが》|玉《たま》のパワーで智の痛み|抑《おさ》えてたんだけど……京介君に転送されるから、戻したの」  麗子が低い声で|呟《つぶや》く。 「ひどいよね……|酷《むご》いと思うわ。でも、|記《き》|憶《おく》がなくても、智のほうが訓練重ねてるし、|耐久力《たいきゅうりょく》あると思う」 (やっぱり、さっき鷹塔の痛みがおさまったとたん、俺に激痛がきたのは偶然じゃなかったんだ) 「|大丈夫《だいじょうぶ》か、鷹塔」 「大丈夫です」  智は、意外にしっかりした声で返事する。しかし、京介を見あげる|瞳《ひとみ》は苦痛に曇っていた。  麗子が、力なく智の前に|膝《ひざ》をつく。 「ごめんね、智。あなたの|感《かん》|応《のう》能力を|封《ふう》|印《いん》するのは簡単なの。でも、そうしたら、さっきみたいに京介君に|怨霊《おんりょう》の苦痛が転送されちゃう。本当は、智の|血《けつ》|縁《えん》|者《しゃ》で、智と同レベルの|霊力《れいりょく》のある人以外に転送されるはずないんだけど……。ごめんね。とにかく、あたしが何か方法を考えるまで、がまんして」 「オレの感応能力……?」 「怨霊や|魔《ま》|物《もの》の苦痛を、文字どおり自分の体で感じるの。一種の共感能力者ね。……だから、|陰陽師《おんみょうじ》になったのよ、あなたは」  智の切れ長の瞳が、ゆっくりと閉じられる。 「……なるほどね」  自分が楽になりたければ、相手の苦痛を救うしかない。  そして、苦痛の発信源が怨霊や魔物ならば、その世界の専門家になるほかない。  専門家、すなわち陰陽師というわけだ。 「逃げようとすれば、ナルミさんに転送されるんですか。は……OA機器並みの性能だな」  胸を押さえたまま、薄く笑う。 「たいした強制力だ。オレの意思なんか関係ないわけだ……」 「智、そんな言い方ってないでしょ! 何、すねてるのよ」  智の|口調《くちょう》が、麗子にはカチンときたらしい。両腕を組んで、少年を|睨《にら》みつける。  |一触即発《いっしょくそくはつ》の|気《け》|配《はい》。  京介がはらはらしながら見守るなかで、智の瞳がひらいた。  そこには、今までとは違う強い光が宿っている。  京介は、初めて会った時の尊大な|陰陽師《おんみょうじ》の|瞳《ひとみ》を思い出した。 「百瀬さん、|新宿《しんじゅく》は?」 「……え?」 「|怨霊《おんりょう》、始末しないとマズいんじゃないですか」  苦痛に顔を|歪《ゆが》めたまま、智は壁にすがって立ちあがる。  コットンシャツの背中を冷たい壁にもたせかける。 「オレ、自分が陰陽師かどうかなんてわからない。どうやって怨霊を始末するかも……。けど、一生こんな苦痛を|抱《かか》えて生きていくのはごめんだ。楽になるなら、どんなことでもする」 「智……」 「力、貸してください」  言葉は|丁《てい》|寧《ねい》だが、頭は下げない。きつい瞳で麗子を|見《み》|据《す》えたまま、|詰《きつ》|問《もん》する。 「どうすれば怨霊を救えます」 「弱らせて|封《ふう》|印《いん》して、それから|浄化《じょうか》して、本人も納得ずくで天に|還《かえ》すのがいちばんいいんだけど……今回は無理っぽい。なんでかっていうと、あたしには、封印の力しかないから。それに、智が怨霊の苦痛感じてるんなら、はっきり言って、戦力にならない。足手まといよ。あたし、あなたを守って、そのうえ、怨霊を封印するために戦うような余裕ないわ」 「オレが足手まといですか……」 「苦しくて動けないんでしょ」  京介は、なかば|惚《ほう》けたようになって、二人の会話を聞いていた。  |交《か》わされる言葉の内容に、感情がついていかない。  非現実的すぎて、できの悪い映画を|観《み》ているような気がする。 「百瀬さんが協力してくれないんなら、オレは一人でも行きます」 「無茶よ。|記《き》|憶《おく》もないくせに。……死ぬわ」 「一生この痛みを抱えて生きるよりは、楽でしょう」  智は、麗子を押しのけて保健室を出た。ぎくしゃくとした動きで、少しずつ非常口へ通じる階段を下りていく。正面玄関は、よけいな|詮《せん》|索《さく》をする人目があると判断したらしい。 「智! 無茶はダメ!」  麗子が制止の声をあげた。  智が足を止めた。  斜めに彼女を見あげる|凜《りん》とした瞳。  形のいい|唇《くちびる》が、|笑《え》みを刻む。 「百瀬さんにはわかりませんよ、きっと。この胸がどんなふうに痛むのか……どんなに悲しくて苦しいか……。この世のどこかで、誰かがこんなふうに苦しんでいるのがわかったら……オレは、|陰陽師《おんみょうじ》でなくても、やっぱり助けに行ったかもしれない」  |間《かん》|断《だん》なく激痛に|苛《さいな》まれているとは思えない動作で、智は身を|翻《ひるがえ》し、非常口にむかって走りだした。 「待ちなさい、智!」  麗子が追いすがる。京介も、反射的にあとを追った。  成り行きが気になる。  それ以上に、智の声と言葉に|魅了《みりょう》されていた。  |感《かん》|応《のう》能力者としての力に強制されているとはいえ、この行動の|鮮《あざ》やかさはどうだろう。  男としても人間としても、|惹《ひ》かれる。目を離すことができない。  夕暮れの薄暗い|廊《ろう》|下《か》の途中で、二人は智に追いついた。  どこかから、合唱部の発声練習が聞こえてくる。 「待てよ、鷹塔」 「智」  麗子が、智の肩に手をのばした。 「違うのよ。相手が|怨霊《おんりょう》っていうだけじゃないの。危険なのよ」  智は、ふりむかない。 「|下手《へ た》したら、怨霊を|封《ふう》|印《いん》しそこねた責任とらされて、JOAに殺される……」 「え……JOAって?」  智は、麗子の真意を|測《はか》りかねて、目を細める。 「なんのことです」 「あたしたちが所属していた財団……|日本神族学協会《ジャパン・オカルティック・アソシエーション》の|略称《りゃくしょう》よ。今回の怨霊封じの依頼は、JOAから受けてたの」  麗子の声は、|覚《かく》|悟《ご》を決めたように静かだった。 「JOAに殺されるって、どういうことです」  智は、麗子にむきなおった。 「話してください」      *    * 「JOAは、社会に有害だと判断した|霊能力者《れいのうりょくしゃ》の能力封じもやっているの」 「能力封じ……?」  |高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》|駅《えき》へむかう道すがら、麗子が早口に説明する。  思った以上に、学校に長居した。空はそろそろ暮れかけて、|街《まち》のあちこちで、|華《はな》やかなネオンが|瞬《またた》きはじめている。 「|霊能力《れいのうりょく》を悪用する人とか、|呪術《じゅじゅつ》で人を殺す|呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》とかもね……今の日本の法律では罰せない。だから、法律の|枠《わく》の外でJOAが解決するの。そういう部署があるのよ。つかまえて、能力を|封《ふう》じて、普通の人間として社会に戻す……」  麗子は、黒いCDラジカセをしっかり|抱《かか》えている。途中、智のマンションに寄って持ってきたのだ。CDラジカセにセットされているのは、「|紅葉《も み じ》」というレーベルのついた|式神召喚用《しきがみしょうかんよう》の黄色いディスク。 「あたしも、|怨霊《おんりょう》の|封《ふう》|印《いん》に失敗したし。解放された怨霊が、|新宿《しんじゅく》で誰かを傷つけでもしたら、JOAにとっては、能力を封じる格好の理由ができるってわけ」  通り過ぎる人々が、妙齢の美女と高校生二人というおかしな組み合わせに、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうな視線をむけていく。 「でも、それで殺されるって……|穏《おだ》やかじゃないぜ」  京介は、体調の悪そうな智を|気《き》|遣《づか》いながら、麗子を見た。  |犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いは、まっすぐ前を見つめて歩いていく。|小《こ》|気《き》|味《み》いいハイヒールの音。 「|建《た》て|前《まえ》として、JOAは|心《しん》|霊《れい》|犯《はん》|罪《ざい》の被告を殺す権限はないの。でも、そうやって能力を封じられた人間は……調べてみたら、数年以内にみんな死んでいたわ。|不《ふ》|慮《りょ》の事故とか病気とか自殺で。それが不自然だって言いだしたのは、智なの……」  智は、麗子の言葉に、わずかに視線をそちらに向ける。今この瞬間も、怨霊の苦痛が胸を|苛《さいな》んでいるだろうに、|蒼《そう》|白《はく》な顔で、|弱《よわ》|音《ね》は絶対に吐かない。 「JOAが呪殺を?」 「ええ。心霊犯罪者の|処《しょ》|罰《ばつ》だけじゃなくて、資金集めのためにもね。呪殺を禁じるJOA自身が|率《そっ》|先《せん》して呪殺を|請《う》け|負《お》ってる。もちろん、|極《ごく》|秘《ひ》でだけど」 「それが本当だとしたら……許せませんね」 「|闇《やみ》の仕事人とか気取ってやんのか、そのJOAってのは」  麗子は、小さくうなずいた。 「それに近いわ。……だから、あたしたちはJOAを脱会したの。組織の巨悪をあばく……って気取ったわけじゃないけど、職員として勤務するかぎり、証拠集めの活動は制限されるし。それに……そんな団体に所属している自分が許せないじゃない」 「よく無事に脱会させてくれたな」 「無条件ってわけにはいかなかったけどね」  迷った末の決断だったのだろう。麗子の表情には、当時の激しい|葛《かっ》|藤《とう》のあとが見え隠れする。 「じつはJOAとの契約で、正職員になるまでに四年以上の研修を受けるって項目があるの。で、その研修料の未納分と、契約違反金……脱会費みたいなのが、あたしは二億円、智はいきなり九億円。これを脱会までに、耳をそろえて払えって言われたのよ。あこぎでしょ。信じられる? ケタが違うわよ。|冗談《じょうだん》じゃないわ」  あこぎ、なんてもんじゃない。  何を聞いても驚くまいと思っていたが、さすがに京介も、ひっくりかえりそうになる。  智は、ショックのあまりか、まったくの無表情だ。 「智の場合、未成年者の支払い契約は、|親《しん》|権《けん》|者《しゃ》の同意がなければ無効なんだけどね。まあ、あっちも|超法規的《ちょうほうきてき》組織だから、そのへんはアバウトよ。法律違反だとかゴネてみたけど、ダメだったわ。結局、四十年かけて分割返済するって話になって」  麗子が|淡《たん》|々《たん》とした|口調《くちょう》で言う。 「あたしも智も、いちおう保証人とられた。あたしは|田舎《い な か》の|親《おや》|父《じ》に頭下げて頼みこんで……。智は苦労したみたい。ご両親は早いうちに|亡《な》くなってるし、双子のお姉さんも結婚してるけど、未成年だし。それに、お|祖父《じ い》さんとお|祖母《ば あ》さんはご健在なんだけど、こういう超常現象関係信じないかたがただから。結局、年上の恋人に頭下げたって聞いたけど、くわしいことは知らないわ。あの頃、智、けっこう荒れてたから」  ふうっとため息をつくと、長いサラサラの髪をかきあげる。 「智の|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》も、ひょっとしたらJOAの|陰《いん》|謀《ぼう》かなって思った。よけいなこと調べられて、うるさくなったのかなって。でも、みすみす九億円の|儲《もう》けを捨てるJOAでもないわよねえ……」 「じゃあ、麗子さんを殺すわけもないじゃん。二億の借金、返してもらわないうちに殺すって変だよ」 「だといいけど」  やがて、駅前の|雑《ざっ》|踏《とう》のなかで、三人は誰からともなく足を止めた。 「ね、智、ここでお別れしましょう。二度と会わない。……そのほうがいいでしょ。|怨霊《おんりょう》のことは、あたしがなんとかする」  麗子が、優しい口調で言う。 「このまま、あなたの記憶は戻らないかもしれない。でも、生きていくことはできるわね。ね、この件からは手を引きなさい。普通の高校生に戻って」  思いつめたような|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いの表情に、智は|眉《まゆ》をよせた。 「オレの記憶喪失の原因……何か心当たりでもあるんですか」 「警告だわ、たぶん。これ以上、手を出すなって。相手が誰かは知らないけれど」  智は、胸を押さえたまま、薄く笑った。 「この能力が消えないかぎり、オレは無関係じゃいられませんよ」  |自嘲《じちょう》ぎみの笑いが、ふいに消えた。  張りつめた智の|眼《まな》|差《ざ》しが優しくなる。 「苦しまないでください、百瀬さん。まだ、何もかも終わったわけじゃないです。チャンスはまだある」  麗子は大きく目を見ひらいた。信じられない、というふうに|唇《くちびる》を押さえる。 「なんで……こんな時だけ、あたしの知ってる智になるのよ! ぜんぜん似てないくせに……」  麗子は苦しげに息をのみ、顔をそむけた。  通り過ぎる人々が、|奇《き》|異《い》の目をむけていく。京介は、麗子を世間の視線からかばうように、その前に立った。背中で|衝《つい》|立《たて》になる。 「|記《き》|憶《おく》ないくせに……どうしてよ……!」  麗子の|瞳《ひとみ》が|怒《いか》りに燃える。 「死ぬ気ですね、百瀬さん。もうダメだって、あきらめてるでしょう。……隠したってわかりますよ」 「しょうがないじゃない! |怨霊《おんりょう》が解放されたのは、あたしのミスだし。JOAの処分は甘くないからね。……よくて罰金が二千万くらい。悪ければ、能力を|封《ふう》|印《いん》されて、あとは殺されるのを待つだけよ」 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。まだ終わったわけじゃない。チャンスはまだある。オレにはわかります。最悪の状況になんか絶対にならない。かならず逆転できます」  その自信は、どこから|湧《わ》いてくるのだろう。 「怨霊……救われたがっています。苦痛のなかで呼んでいる……大丈夫です」 「そう……?」 「あきらめる前にやってみませんか」  |綺《き》|麗《れい》な|笑《え》|顔《がお》。  心臓の激痛に耐えているはずなのに、それを感じさせない。  京介は、智の|強靭《きょうじん》な精神に、内心|舌《した》をまいていた。  人は、どれほどの肉体的苦痛に耐えられるものだろう。  智の|眼《まな》|差《ざ》しは、どこかで突きぬけている。  |興《こう》|福《ふく》|寺《じ》の|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》|像《ぞう》を|彷《ほう》|彿《ふつ》とさせる|遥《はる》かな視線。  麗子が彼を頼り、信じてついてきたのは、この瞳のせいかもしれない。  時に熱く、時に|刃《やいば》のように冷たく、その瞳は自在に人の心を揺り動かす。 「鷹塔……」  京介の胸がズキンと痛くなる。 (なんで笑ってられるんだよ、おまえ、そんなふうに……) 「オレも行きますよ。もともと、一緒に仕事してた仲間じゃないですか」  智は、麗子にノーと言わせない目つきだ。 「最後の瞬間まで、勝負を投げないで」  短い沈黙。  やがて、麗子の|唇《くちびる》に|皮《ひ》|肉《にく》めいた笑いがかすめる。 「|記《き》|憶《おく》ないんだから、あたしの足引っぱらないでよね、坊や」 「ええ……もちろん」  |陰陽師《おんみょうじ》と|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いの右手が同時にあがる。  パン! と空中で打ちあわされる手のひら。  話はそれでついたようだ。  ゾクッとするほど|綺《き》|麗《れい》な|瞳《ひとみ》が、京介の上で止まる。 「ナルミさん、オレ、まだお礼言ってなかったですね。倒れてるところ、助けてくれてありがとうございます。ホントに……」 「おい、ここでお別れみたいな言い方すんじゃねーよ」 「だって……この先は、あんたには関係ないんですよ」 「俺も行く」 「オカルト嫌いなんじゃないんですか」  智が、いぶかしげに|呟《つぶや》く。少し首をかしげている。 「ここまで来て、俺だけ、はいそうですかって帰れるもんか」  |拒《きょ》|絶《ぜつ》されたらどうしようと、内心ビビリながらも、それはおくびにも出さない。  ここで|怯《ひる》んだら、負けだ。何が負けなのかよくわからないが、京介は思いっきり気合いを入れてしまう。 「絶対ついていくからな!」 「いいわよ」  麗子が、智の隣から、あっさりと言う。京介は、思わず|拍子抜《ひょうしぬ》けしてしまった。 「え……いいの?」 「智もついてきてほしいって。ほら、この子、ちょっと感情表現|下手《へ た》だから」  苦痛をこらえた少年が、すがりつくような瞳で、京介を見つめている。  置き捨てられた子犬のような目だ。ただし、シベリアンハスキーの|怖《こわ》い目だが。 「そこまで言われちゃ、しょうがねえなあ。ついていってやるよ、鷹塔」  京介の言葉に、智の瞳がパッと明るくなる。 「後悔しても知りませんよ」  うれしそうな瞳の輝きとは裏腹に、意地っぱりな言葉。 「こんな体調の悪そうな|奴《やつ》、ほうっておけねーだろうが」  幸せな気分を|噛《か》みしめて、京介は智のそばに近よった。 「よかったわねぇ、京介君。はい、CD持ってちょうだい」  ハッピーになったところにつけこまれた京介は、麗子の言うままに、重い荷物を|抱《かか》える羽目になる。だが、今は何をされても怒る気にはならない。 「ホント、お人よしですよね、ナルミさんって」 「え?」と、京介は智の顔を見た。  智は、ニコニコ笑って、「お人よしついでに切符買ってきてくださいね」とねだる。      *    *  |闇《やみ》に包まれたヨドガワカメラ|新宿東口店《しんじゅくひがしぐちてん》前である。  |死《し》|闘《とう》は、すでに二十分以上続いていた。 「智! 京介君! 逃げて! もうダメ……。あたし、|抑《おさ》えきれない……!」  麗子の頭上に、黒い|触手《しょくしゅ》が落ちかかってくる。  |呪《じゅ》|符《ふ》の攻撃も|間《ま》に合わない。麗子は、悲鳴をあげた。 「きゃあああああーっ!」  横倒しにアスファルトに|叩《たた》きつけられるスーツ姿。ハイヒールが宙に飛び、地面に転がるカツンという音がした。麗子は気絶したのか、そのままの姿勢で動かない。 「麗子さんっ!」  京介は、右手から襲いかかる触手をバッシュで|蹴《け》りあげざま、麗子にむかって走った。 「麗子さーんっ!」  |華《きゃ》|奢《しゃ》な肩を|抱《かか》え起こすと、低いうめき声が聞こえた。とりあえず、生きているようだ。  京介は、少しホッとした。  |緋《ひ》|色《いろ》の|犬《いぬ》|神《がみ》が|牙《きば》をむきだし、京介と麗子を|狙《ねら》う触手に飛びかかっていった。のたうつ触手の根元を|噛《か》み|裂《さ》く。ドー、と落ちてくる触手の|塊《かたまり》。  あたりには|腐臭《ふしゅう》がたちこめている。  智は、|淫《みだ》らに|蠢《うごめ》く触手に|縛《いまし》められ、なかば目を閉じた苦しげな表情で壁にもたれている。  なぶるように、何本もの触手の先端が胸もとや|袖《そで》|口《ぐち》から|這《は》いこんでいく。 「く……うっ……ん……っ!」 「鷹塔……!」  京介は、地面に転がるCDラジカセと、|式神召喚用《しきがみしょうかんよう》のディスクに手をのばした。|犬《いぬ》|神《がみ》が側面から援護する。  CDラジカセを拾いあげ、ディスクをセットする。肩にずっしりきた。あきらかに、普通のディスクを入れた時より重く感じられる。 「頼むぜ……」  祈るような気持ちで演奏ボタンを押した。しかし、動かない。|焦《あせ》って何度か|叩《たた》いてみたが、古いTVとは違って、そう簡単には直らないようだ。  警告するように犬神がチィチィ鳴く。京介の後ろから|触手《しょくしゅ》が襲いかかってきた。 「うわっ!」 「あぶないっ!」  |刹《せつ》|那《な》、|紫《むらさき》に発光する|呪《じゅ》|符《ふ》が飛んだ。 「|禁《きん》|殺《さっ》|気《き》!」  あわやというところで、京介の背後の触手が|呪《じゅ》|縛《ばく》される。ピ……シッと夜の大気が|軋《きし》んだ。 「……|大丈夫《だいじょうぶ》……?」  優しい声が尋ねる。京介は、声の|主《ぬし》を|凝視《ぎょうし》した。 「麗子さん……無理しないで」 「大丈夫……よ……」  麗子が、京介の言葉をさえぎり、勢いよく起きあがる。 「きりがないわ……いっきに|封《ふう》|印《いん》するわよ!」 「無茶だ」 「ううん、大丈夫。|邪《じゃ》|魔《ま》しないで」  麗子はよろよろしながら立ちあがり、スーツのポケットから|勾《まが》|玉《たま》を取りだした。勾玉の石は|紅水晶《ローズクオーツ》だ。両手で頭上に|掲《かか》げる。 「|召邪封印退魔法《しょうじゃふういんたいまほう》!」  勾玉がクルクル回りはじめた。次の瞬間、目も|眩《くら》むようなショッキングピンクの光が|闇《やみ》を照らしだした。地面のあちこちに、触手で叩き割られたアスファルトの|残《ざん》|骸《がい》が見える。 「公共物を破壊するんじゃないわよっ! 都民の|血《けつ》|税《ぜい》をなんだと思ってるの!? 道路の工事にだって都民の税金が使われてんのよっ! 非国民っ!」  麗子は片手で勾玉を握り、片手で|印《いん》を結びながら、本気で怒っている。  ちょっと論点がずれているような気がしたが、京介は口出ししないことにした。  カラ元気は出しているが、麗子はやはりさっきの攻撃でダメージを受けている。時々、体が小さく揺れるのが見えた。 「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン!」  バキッ!  新たに|闇《やみ》のなかから|這《は》いだしてきた|触手《しょくしゅ》が、麗子の|真《しん》|言《ごん》をバカにしたように、その目の前の地面を|叩《たた》き割る。五センチほどの|幅《はば》の|亀《き》|裂《れつ》が入った。 「ふざけないでよっ!」  麗子の|勾《まが》|玉《たま》の光に、|緋《ひ》|色《いろ》の|獣《けもの》がじゃれついた。|邪《じゃ》|魔《ま》しているのかと思ったら、|犬《いぬ》|神《がみ》の|霊《れい》|体《たい》がショッキングピンクの光を吸いこんで巨大化している。|鼠《ねずみ》くらいの大きさだったのが、どんどん|膨《ふく》らんで、|牧《ぼく》|羊《よう》|犬《けん》くらいになる。  巨大化した犬神は、重さのないもののように軽々と宙で反転した。ひと飛びで触手の発生源の闇にのしかかる。闇の中心に|牙《きば》をたてると、ショッキングピンクの光が牙を伝って流れこんでいくのが見えた。  黒い触手が、苦しげにのたうちはじめる。  智にからみついていた触手も、ズルズルと後退していった。あきらかに、勾玉の光を嫌っている。 「|魔鬼幽魂招来《まきゆうこんしょうらい》!」  麗子が勾玉をひとふりする。リーン……と鈴を鳴らすような音がして、大気が震える。  ショッキングピンクの輝きに中和されたように、|漆《しっ》|黒《こく》の闇が消えた。|新宿駅《しんじゅくえき》方面からのネオンの光が、ようやくこの|小《こう》|路《じ》の|隅《すみ》|々《ずみ》にまで届く。  だが、触手は消えなかった。勢いこそ弱まったが、まだ地面に固まってうねうねと|蠢《うごめ》いている。 「……どうして。術は|完《かん》|璧《ぺき》なはずよ!」  ビルの横に座りこんでいた智が、京介の手につかまって立ちあがる。  智は、触手の粘液でズルズルになった|頬《ほお》を、うっとうしそうに手でこすり、その手をホワイトジーンズに|擦《こす》りつける。子供じみた|怒《いか》りの動作。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が、静かに麗子を見た。智の表情はものすごく|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》だが、声は冷静だった。 「百瀬さん、|中《なか》|臣《とみ》の|祭《さい》|文《もん》です。|神《しん》|道《とう》|系《けい》で|試《ため》してみてください」 「智……|記《き》|憶《おく》、戻ったの?」  驚いたように尋ねる声。 「いえ……なんとなく浮かんだだけです」  京介は、素早くCDラジカセとディスクをチェックし、電池が抜け落ちているのを発見した。これでは、鳴らないわけだ。  そのへんを探すと、電池が転がっていた。それを拾いあげながら、京介は横目で智を|眺《なが》めた。 「なかとみのさいもん? なんだ、そいつは」 「知りません。オレもわからない」 「バカ。自分でも知らないことをいきなり口走るな。このイタコ体質」 「オレは、イタコなんかじゃないです」 「|真《ま》|面《じ》|目《め》に反応すんな、いちいち」  京介は肩をすくめた。CDラジカセの演奏ボタンを押すと、音楽と同時に紅葉が出現した。 「チャオ〜! マスター、元気だった!? 愛してるよう!」  |式《しき》|神《がみ》は、うれしげに智の首にしがみつく。  京介は、少しばかり|邪《じゃ》|険《けん》に式神を押しのけた。 「じゃれてる場合か」 「ひどいーっ! |旦《だん》|那《な》の|意《い》|地《じ》|悪《わる》っ!」 「おまえ、戦闘に強いわりには、おちゃらけててバカだよな。強い式神か、バカな式神か、どっちかに決めろよ」  大きなお世話だと、紅葉が京介にむかって|舌《した》を出してみせる。 「|高《たか》|天《まの》|原《はら》に|神《かむ》|留《づま》り|坐《ま》す |神漏岐神漏美之命《かむろぎかむろみのみこと》|以《も》ちて |皇御祖神伊邪那岐命《すめみおやかむいざなぎのみこと》 |筑《つく》|紫《し》|日《ひ》|向《むか》の|橘《たちばな》の|小戸之阿波岐原《おどのあわぎはら》に|身滌《み そ ぎ》|祓《はら》ひ|給《たま》う時に|生《あれ》|坐《ませ》る|祓戸之大神等《はらえどのおおかみたち》……」  麗子が、輝く|勾《まが》|玉《たま》を|掲《かか》げたまま、|祭《さい》|文《もん》を|唱《とな》えはじめる。  みるみるうちに、|触手《しょくしゅ》の|蠕《ぜん》|動《どう》が|鎮《しず》まった。  ふいに、ヨドガワカメラの前に、|能装束《のうしょうぞく》のようなものをまとった人の姿が浮かびあがる。  しだれ|柳《やなぎ》の枝のような長い髪は足もとまであり、全身に|桜《さくら》の花びらがまとわりついている。 「なぜ……眠らせてくれぬ……安らがせてくれぬのだ……」  ゼンマイ仕掛けの人形のような動きで、腕があがる。手に|緋扇《ひおうぎ》を持っている。 「許さぬ……わが眠りをさまたげる者は……許さぬ!」  扇が|翻《ひるがえ》ると、ゴーッとすさまじい風がまきおこった。 「う……!」  京介は顔を|覆《おお》い、風に背をむけた。体をさらわれそうになる。  シャツがハタハタとはためき、ズボンが足に張りつく。  全身を押す風の力に、足もとが|滑《すべ》りそうになる。 「許さぬ!」  智が腕で顔を隠し、風に|逆《さか》らって叫んだ。 「オレたちは、あなたを助けにきたんです! もう|闇《やみ》にとらわれなくてもいい! 天に|還《かえ》ってください!」  麗子が風に足をとられ、アスファルトの上に転がる。 「きゃっ……! やーん! スカート!」  思わず、京介はそっちを見てしまう。 「何見てるのよっ! バカぁ!」  麗子はあられもない姿でひっくりかえり、何度も転がって、ビルの壁にぶつかって止まった。  京介も、ゆっくり麗子を見物しているどころではない。足がすさまじい|突《とっ》|風《ぷう》に流された。バランスを|崩《くず》す。 「うわっ! わああああーっ!」 「やめてください! もう終わったんです! あなたは自由なんですよ!」  |緋扇《ひおうぎ》が|一《いっ》|閃《せん》する。  智の体が、見えない手に突き飛ばされたように、数メートル後ろのアスファルトに|叩《たた》きつけられた。二、三回、バウンドして止まる体。 「く……っ!」 「鷹塔っ!」  うつぶせに倒れた智の肩が動く。  顔をあげると、|額《ひたい》を切ったのか、|鮮《せん》|血《けつ》が流れだしていた。  |記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の|陰陽師《おんみょうじ》は、歯を食いしばり、負けん気な|瞳《ひとみ》で立ちあがった。全身から、青い|霊《れい》|光《こう》が輝きだす。 「説得はきかないというわけか。……なら、やり方を変えるまでだ」 「た……鷹塔……」  京介は、|戦《せん》|慄《りつ》した。智の|気《け》|配《はい》が変わっていく。|刃《やいば》のように|研《と》ぎ澄まされた霊気。  全身から青い光を放ちながら、智が両手で|印《いん》を結ぶ。 「オン・ハンドマダラ・アボキャジャヤニ・ソロソロ・ソワカ!」  ふいに、彼の頭上に金色の|錫杖《しゃくじょう》が出現する。  智が錫杖に手をのばすと、その|仕《し》|草《ぐさ》に呼びよせられたように、錫杖は陰陽師の手のなかにおさまった。  金属を打ち鳴らす澄んだ音が響きわたる。突風がピタリとやんだ。  |怨霊《おんりょう》が|扇《おうぎ》を|掲《かか》げ、スススッと後ろに下がる。 「逃げても|無《む》|駄《だ》ですよ」  智は錫杖を横にかまえ、左手を錫杖に十字に交差するように押しあてる。  |緊《きん》|迫《ぱく》した空気のなか、怨霊が|装束《しょうぞく》の胸をパッとひらいた。 「これを見よ」 「う……!」  京介は息をのんだ。怨霊の胸のあたりに、少女の顔が埋まっている。長い黒髪に囲まれた|痩《や》せた|頬《ほお》に、手のひらほどの赤黒い|火傷《や け ど》の|痕《あと》があった。 「F組の|牧《まき》|村《むら》だ……」 「知り合い、|京介君《きょうすけくん》?」  麗子がハイヒールを拾って、こちらに歩いてくる。 「顔だけは知ってる。牧村|冴《さえ》|子《こ》……けっこう有名だから。成績いいし」  火傷の原因についての|噂《うわさ》のほうが有名なのだが、それは口にしない。  こんな姿になる前は、冴子は|港区《みなとく》の有名プロダクションに所属して、アイドル候補生の一人だったそうだが、今はすさんで見る影もない。  一度、京介は何かの機会に、彼女の中学入学時の写真を見たことがあるが、別人のような美少女だったのを|記《き》|憶《おく》している。 「そっか……|怨霊《おんりょう》のフロッピー解放したの、彼女ね。気の毒に」  麗子の声も沈んでいる。 「助けられるんだろ? あのままじゃ……」 「智なら……たぶん、なんとかできると思う。|記《き》|憶《おく》なくても、術使えるみたいだし……」  二人の会話を背中で聞きながら、智がゆっくりと前に出る。 「オレに|脅迫《きょうはく》はききませんよ。|観《かん》|念《ねん》してください」 「この娘が死んでもいいのか」  怨霊の胸に埋まった少女の目がひらく。絶望に|歪《ゆが》んだ顔が、智とその後ろの二人に気づいたようだ。 「|嫌《いや》あああああーっ!」  冴子の|鋭《するど》い悲鳴が夜を引き|裂《さ》く。 「見ないでぇっ! あたし、みっともないから、嫌っ! 見ないでっ!」  冴子の叫びと一緒に、怨霊の体が巨大化していく。 「まずいわ……彼女の心と怨霊の|怨《おん》|念《ねん》が|融《ゆう》|合《ごう》してる……」  麗子が|呟《つぶや》く。 「智、気をつけて」 「この娘を助けたくば、|退《の》け!」  怨霊が、流れるような動作で前に出てくる。|緋扇《ひおうぎ》をピタリと冴子の|喉《のど》にあてると、ゆっくりと横に動かす。 「痛……い……っ!」  冴子の顔が苦痛に歪み、喉の皮膚が破れて血がタラタラと流れだした。 「退くがよい! |陰陽師《おんみょうじ》!」 「助けて……!」  冴子の声に、京介は顔をそむけた。どうしていいのかわからない。 「鷹塔……」 「智、無理はしないで! |人《ひと》|質《じち》とられたようなものよ! 聞こえてる、智!?」  不安げな麗子の声に重なって、|怨霊《おんりょう》の勝ち誇った|哄笑《こうしょう》と少女のすすり泣き。 「……許さない」  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が、|怒《いか》りに燃える。 「自分が苦しいからって、他人を苦しめて……いいと思ってるんですか!」  智の全身の青い|霊《れい》|光《こう》が|火《か》|炎《えん》の形に燃えたつ。霊光は、一瞬、銀色に変わった。 「オン・ハンドマダラ・アボキャジャヤニ・ソロソロ・ソワカ!」  素早く|錫杖《しゃくじょう》を背後に引き、流れるようなフォームで怨霊に投げつける。 「何をする! 鷹塔っ!」  京介は、智が発狂したかと思った。  少女の顔面に錫杖が刺さったら、彼女は確実に死ぬ! 「やめろーっ! 鷹塔っ!」 「|破《は》|邪《じゃ》!」  怨霊は|緋扇《ひおうぎ》をかざす。再び、すさまじい|突《とっ》|風《ぷう》がまきおこった。その胸もとへ、錫杖は澄んだ音をたてながら吸いこまれていく。  |新宿《しんじゅく》の一角で、金色の光が|炸《さく》|裂《れつ》した。声にならない怨霊の悲鳴が、夜空を揺るがせる。  ゴゴゴゴゴゴーッ!  地面が激しく震動する。  |錫杖《しゃくじょう》の澄んだ音は、しだいに高まって、最後には耳をつんざくほどの|轟《ごう》|音《おん》に変わった。  |怨霊《おんりょう》は、金色の錫杖で胸をつらぬかれたまま、|硬直《こうちょく》していた。  少女の顔のあった場所から、ドロリとした血が大量に流れだす。  ふいに、|能装束《のうしょうぞく》の|裾《すそ》のあたりから|漆《しっ》|黒《こく》の|炎《ほのお》が燃えあがった。炎は、怨霊を包みこんで天にむかって吹きあがる。  ピ……シッと大気が|軋《きし》むような音がする。  黒い炎のなかで、何かが|砕《くだ》けたようだった。 「|高《たか》|天《まの》|原《はら》に|神《かむ》|留《づま》り|坐《ま》す |神漏岐神漏美之命《かむろぎかむろみのみこと》|以《も》ちて |皇御祖神伊邪那岐命《すめみおやかむいざなぎのみこと》 |筑《つく》|紫《し》|日《ひ》|向《むか》の|橘《たちばな》の|小戸之阿波岐原《おどのあわぎはら》に|身《み》|滌《そぎ》|祓《はら》ひ|給《たま》う時に|生《あれ》|坐《ませ》る|祓戸之大神等《はらえどのおおかみたち》……」  智が、早口に|祭《さい》|文《もん》を|唱《とな》えはじめた。  |記《き》|憶《おく》がないというのが|嘘《うそ》のような姿だ。  その|瞳《ひとみ》には、|哀《あわ》れみとも|嘆《なげ》きともつかない色が浮かんでいる。  ひどく大人びた高貴な表情。  絶対的なカリスマを感じる。 「鷹塔……」  |逆《さか》|立《だ》ちしてもかなわない|魂《たましい》の違い。 (同じ高校生で、この差はなんだ)  京介の胸が、|嫉《しっ》|妬《と》にしめつけられる。 (|悔《くや》しい)  生まれて初めて、本気でそう思う。  かなわないかもしれない。  智の魂の輝きが許せない。  どうして、こんなものが存在することが許されるのだろう。 (誰もが、けっしておまえから目を離すことはできやしない。  たとえ、おまえを|憎《にく》んでいたとしても)  予感はしていた。  この圧倒的な個性の前に、京介は、憎むか愛するかの|選《せん》|択《たく》|肢《し》しか残されていないのだ。  無視することなどけっしてできない。 (|生《なま》|半《はん》|可《か》な気持ちでつきあいつづければ、いつかおまえの個性が俺を食い殺す。  それほどに、おまえの輝きは強い) 「……|諸々禍事罪穢《もろもろまがごとつみけがれ》を|祓《はら》ひ|給《たま》え|清《きよ》め|給《たま》えともうす|事《こと》の|由《よし》を|天《あま》|津《つ》|神《がみ》|国《くに》|津《つ》|神《がみ》|八百万之神等共《やおよろずのかみたちとも》に|天《あめ》の|斑《ふち》|駒《こま》の|耳《みみ》|振《ふ》り|立《た》て|聞《きこ》し|召《め》せと|畏《かしこ》み|畏《かしこ》みももうす」  |祭《さい》|文《もん》が終わると、パン! と智が手を打つ。 「|浄魔《じょうま》!」  同時に、鳥の羽ばたくような音と|芳《かぐわ》しい風がまきおこり、|怨霊《おんりょう》と黒い|炎《ほのお》は|完《かん》|璧《ぺき》に消滅した。  今まで怨霊のいた場所には、長い髪の少女がグッタリと倒れているばかりだ。  |錫杖《しゃくじょう》は、怨霊だけを選んで打ち|砕《くだ》いたのだ。  智は少女に歩みより、静かにその|傍《かたわ》らに|跪《ひざまず》いた。|火傷《や け ど》の|痕《あと》のある|頬《ほお》にそっと|触《ふ》れてみる。 「|大丈夫《だいじょうぶ》です。息はある」 「智! えらいわ!」  麗子が、笑いながらハイヒールを|脱《ぬ》ぎ捨てた。|素《す》|足《あし》で智に駆けよっていく。  京介は、少し遅れて、のろのろと|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の|陰陽師《おんみょうじ》に歩みよった。  何を言っていいのかわからない。口をひらけば、智を傷つける言葉を吐いてしまいそうだ。 「ナルミさん……」  こちらを見る|凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が、京介の姿に気づいて、優しくなる。  さしのべられる腕。 「鷹塔……」  京介の暗い想いが、|嘘《うそ》のように消えていく。 (|憎《にく》むことなんかできない)  その時、智の体は麗子の悲鳴のなか、グラリと揺れてくずおれる。 「鷹塔……!」  疲れきった体は、当然のように、京介の両腕のなかに沈みこむ。  京介は、無言で智を抱きしめた。  胸のなかで、|鎮《しず》まらない嵐が荒れ狂っている。 (おまえを誰にも渡さない)     第六章 |新宿《しんじゅく》からの呼び声  |牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》と、ヨドガワカメラの店内で発見された|黒《くろ》|木《き》|晋《しん》|一《いち》は、|麗《れい》|子《こ》たちが呼んだ救急車で病院に運ばれ、入院した。  |怨霊《おんりょう》に取りこまれていた冴子より、黒木の|容《よう》|体《だい》のほうが重かった。全身の骨が折れ、内臓もグシャグシャになっている。  それがあの|触手《しょくしゅ》のせいだと知っているのは、怨霊と戦った三人だけである。  ヨドガワカメラ前の大きな|亀《き》|裂《れつ》は、水道局の手抜き工事が原因として処理され、二、三日マスコミが騒いだが、すぐに忘れ去られてしまった。  この戦いで、|智《さとる》の|記《き》|憶《おく》はかなり混乱した。  もともと|消耗《しょうもう》していた体で、|陰陽師《おんみょうじ》としての|霊力《れいりょく》を使ったためだ。  さすがに|京介《きょうすけ》と麗子のことは忘れなかったが、新宿で陰陽師として行動していたあいだのことは忘れてしまったらしい。なぜ自分が新宿にいたのかも覚えていないようだった。もちろん、|真《しん》|言《ごん》や|祭《さい》|文《もん》も思い出せない。  新宿から戻った直後の智は、豪華な人形のようだった。|綺《き》|麗《れい》な顔でニコニコ笑う姿に、京介はひたすらドギマギしていた。  その状態がずっと続いていたら、京介の理性がどうなっていたかはわからない。  幸い、翌日にはもとに戻ったのだが。      *    *  五日後の日曜日。  京介は|西武池袋線《せいぶいけぶくろせん》と|山手線《やまのてせん》を乗りついで、智のマンションを訪れた。  例の|呪《じゅ》|火《か》で焼けたアパートの後片付けがすむまで、京介は、|練馬区大泉学園《ねりまくおおいずみがくえん》の自宅のほうに戻っている。  午後から、ずっと意識不明の状態の続く冴子を見舞う約束である。  午前中までは|小《こ》|雨《さめ》が降っていたが、午後は晴れて、ぬけるような青空が広がっていた。 「やほー、|旦《だん》|那《な》っ! いらっしゃーい」  ドアを開けると、いきなり|紅葉《も み じ》が飛びついてくる。|式《しき》|神《がみ》のCDがまわっている。 「|鷹《たか》|塔《とう》、いる?」  奥のほうの寝室を気にしながら、そっと尋ねる。智は、新宿から戻って以来、一日の半分はだるそうに眠っている。学校でもその調子なので、京介はひそかに心配していた。 「ナルミさん……ですか」  居間のほうから、智の声が聞こえてくる。今日は起きているらしい。  フローリングの部屋に入ると、智がカウチにもたれかかっていた。もう昼だというのに、紺色のパジャマ姿だ。手のなかには、スポーツドリンクの|缶《かん》がある。 「なんだよ……まだそんな格好して。いい若いもんが。……メシは?」 「朝昼兼用で、さっきチキンラーメン食いましたけど」  京介は|呆《あき》れて、大きく|膨《ふく》れたデパートのビニール袋を|床《ゆか》に置いた。  智の口からこの|類《たぐい》の返事を聞くのは、今日で五日目だ。インスタント食品やジャンクフードばかり食べて、飲むものといえばアイスコーヒーかスポーツドリンクだけ。  しかも、自分が|陰陽師《おんみょうじ》だというのは否定しながら、|都《つ》|合《ごう》よくハンバーガーやスポーツドリンクは、ちゃっかり紅葉に買いに行かせている。  遠まわりして食事の材料を買ってきて正解だった。 「おまえ、もっと身になるもの食え。体に悪いぞ。だから|痩《や》せてるんだ」  こんな立派なマンションに住んでいるくせに、最新式の冷蔵庫にはペットボトルと氷しか入っていない。あんまり|綺《き》|麗《れい》すぎて涙が出るほどだ。 「俺がメシ作ってやるから食えよ。ほら、立派な|鰺《あじ》! そのへんのスーパーで買ったやつじゃなくて、わざわざデパートの|鮮《せん》|魚《ぎょ》売り場で仕入れてきたんだ。鮮度いいから目が澄んでて、超美人だろ。たたきにしてやるよ。|醤油《しょうゆ》ぶっかけて食うと、うめーぞ」  智の目の前に魚の尾をつかんで差し出すと、少年はウッとうめいて顔をそむけた。 「やめ……! しまってください!」 「どうした? 嫌いなのか? ひょっとして、鰺、食えないのか」 「違います。変なんですよ……」  片手であっちへ行け、という身振りをしながら、|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の陰陽師は|呟《つぶや》く。 「オレ、この頃、死んだ魚とか肉とかダメなんです。声が聞こえてきて……」 「声……?」  なんだか|嫌《いや》な予感がする。  智の切れ長の|瞳《ひとみ》が伏せられた。 「苦しい、苦しいって……。魚の|怨《おん》|念《ねん》とか伝わってくるんですよ……。疲れてると特にひどいんです。昨日なんか、ベーコン食べようとしたら、|豚《ぶた》の怨念が……」 「豚の怨念!? ナイスじゃーん!」  |冗談《じょうだん》にしても、すごすぎる。 「怨念が嫌なら、|革《かわ》|靴《ぐつ》も|履《は》くなよ。通学カバンもビニール製にするんだな。あと、ウール製品もよせよ。毛を刈られた|羊《ひつじ》の怨念がこもってるかもしれないからな」  笑いながら言うと、智が軽くこちらを|睨《にら》みつけてくる。 「|冗談《じょうだん》だと思ってますね」 「ウケたぜ、鷹塔!」 「オレは本気で言ってるんです」  智の|口調《くちょう》が変わった。|噛《か》みつきそうな目つきだ。 「そんなに|嫌《いや》か。……死ぬほど嫌か」 「嫌です」 「そうか。ほれ」  本気で怒っている智の目の前に、グイと|鰺《あじ》を近づけてやる。  |尻尾《し っ ぽ》を持ってブラブラさせると、智は口を押さえて顔をそむけた。京介は、しつこく魚をふりまわす。 「どんな気分?」 「やめて……ください!」  ここまでオーバーアクションで嫌がられると、なんだか|面《おも》|白《しろ》くなってしまう。京介はつい悪ノリした。 「嫌よ嫌よも好きのうちじゃ。ほれ、もっとちこう」 「ナルミさん、その|可愛《か わ い》らしい口にナイフつっこんであげましょうか」  智が、テーブルの上の果物ナイフをつかんで、薄く笑う。こいつはキレる寸前とみた。  京介は肩をすくめて、鰺を玄関のほうに持っていった。  紅葉に頼んで、|練《ねり》|馬《ま》|区《く》の自宅の冷蔵庫に配送してもらう。  鰺一匹いらなくなったからといって、簡単には捨てられないのが、親もとを出て生活費を自力で|稼《かせ》いでいる|貧《びん》|乏《ぼう》学生の悲しさだ。  身に|染《し》みついた貧乏性は、なかなか消えないらしい。      *    *  同じ頃、マンションの外の通りでは、二人の少女が智の部屋の窓を見あげていた。  公園に通じるタイル敷きの道である。左右は、民家と商店が混在している。 「ね、ね、早起きして張りこんでて正解だったよねっ!」  ポニーテールを揺らして、|桃《もも》|子《こ》が|跳《は》ねまわる。|緑地《みどりじ》に原色の花が散ったミニスカート。その上は、薄いデニム地で|衿《えり》もとにレースをあしらったタンクトップだ。 「京介サマと鷹塔クンは、絶対にあやしい!」 「いや、でも、まだ証拠がないわよ」  眠い目をこすりながら、口もとにホクロのある美少女が相づちをうつ。  腰まである長い髪を風になびかせ、オレンジ色のツーピース姿で|物《もの》|憂《う》げに|灰《はい》|色《いろ》の石のベンチに腰かけている。ほっそりした足もとは、初夏らしく白のハイヒールだ。 「ん……もう。|里《り》|香《か》ってばぁ、ホントに冷静なんだから。もっと、こう……|乙女心《おとめごころ》がときめかない? わくわくしたりしない?」 「してるわよ」 「|嘘《うそ》ぉー。ぜんぜん平気な顔しちゃってぇ! この人、大人だからぁー」 「やーね。生まれ月は、|桃《もも》|子《こ》のほうが二か月早いじゃないの」 「そういう問題じゃないってばぁ!」  桃子が思わずいきりたって|仁《に》|王《おう》|立《だ》ちになった時、車道に真っ赤なフェラーリが|停《と》まった。 「ねえねえ、お嬢さんがた、|新宿《しんじゅく》ってどう行けばいいのか教えてくんない」  軽そうな声が呼びかける。  |新《あら》|手《て》のナンパかと思ってふりかえった二人の顔が、瞬時にゆるむ。 「えーっ! 嘘、嘘、嘘ぉーっ!」 「きゃーっ! すごいーっ! こんなのってー!」  もちろん、|街《まち》を歩けば、そのへんに腐るほど高級外車が走っている東京育ちの二人だ。  たかが真っ赤なフェラーリごときに驚いたわけではない。 「どうしよう、どうしよう……! きゃーん! |悶《もん》|絶《ぜつ》ーっ!」 「やだーっ! 嘘ぉーっ! こんなツーピースじゃなくて、おニューのワンピーにしてくればよかった! アンクレット、つけてくればよかったぁー!」  |声《こわ》|高《だか》に騒ぐ二人の前で、フェラーリのドアが開いた。      *    * 「|悪《わり》ぃ、鷹塔。そんなにマジで怒んなよ」  居間に戻ってくると、智は、カウチにのったまま無言で|膝《ひざ》を|抱《かか》えている。  京介は、智の横に並んで腰かけ、少し|痩《や》せたような肩を見つめた。 「でも、何か食えるもの、あるだろ。なんでも作ってやっから食えよ。和食でも洋食でも中華でも。俺、けっこうバリエーションは広いんだぜ。おふくろがさ、料理も|洗《せん》|濯《たく》もしねー女で、しようがねえから、俺がそのぶん、しっかりしなきゃって……」 「食いたくないんですよ……基本的に」 「ほう、そうかよ」  こうもすげなく|拒《きょ》|絶《ぜつ》されると、京介も意地になった。せっかく食料を買ってきてやったのに、この返事は許せない。 「こうなったら、棒でつっこんでも食わせてやる。俺がそばについていながら、偏食でぶっ倒れられちゃ、たまんねーからな」 「死んでも|嫌《いや》ですね」  智は鼻で笑い、スポーツドリンクをいっきに|喉《のど》に流しこんだ。  その手首を京介は強くつかむ。 「何……すんですか!」 「わがままも、たいがいにしろ」 「嫌なものは……嫌です」  ふりはらおうとする腕をカウチの背に押しつけ、少年の目を|睨《にら》みつける。 「こぼれるじゃないですか。気ぃつけてくださいよ。オレ、掃除すんの、かったるくて」  智は、熱くなった京介を非難するように、わざと冷静な|口調《くちょう》で言う。  本格的な|喧《けん》|嘩《か》になりそうな雲行きだ。  京介は、しぶしぶ、智から手を離した。相手が争いたがっていないのはわかる。  それでも、気分がおさまらない。|拳《こぶし》で軽く少年の胸を|殴《なぐ》りつけてやる。  智は目を細めた。シベリアンハスキーのような|怖《こわ》い目で、京介をじっと見る。 「なんですか、ナルミさん」 「毎日ゴロゴロしてて……かったるいも何もないだろう」 「オレ、夜は|一《いっ》|睡《すい》もしてないです」  きつい|瞳《ひとみ》が京介を見、ふいとそらされる。薄く日に焼けた手が、飲みおわった|缶《かん》を、カタンとフローリングの|床《ゆか》に置く。 「眠れないんですよ」 「なんでだよ。……昼間寝てるせいじゃないのか」 「違います。夜眠れないから、昼間に寝てるんです。仕方ないんだ」  智は、肩をすくめた。 「夜な夜な、出てくるんですよ」  ギクリとした京介は、部屋のなかを見回した。  あんな|超常《ちょうじょう》現象を体験したくせに、オカルト嫌いはなおらなかった。それどころか、よけい嫌いになったような気がする。 「出てくるって……?」 「決まってるじゃないですか」  智は、両手を胸の前でダラリと垂らしてみせる。  予想があたってしまった京介は、片手で顔を|覆《おお》った。なんてこった。 「出るのか、マジに?」 「もっと嫌なのは、|幽《ゆう》|鬼《き》の気持ちがわかることなんです。|闇《やみ》のなかでじっとしてると……たまらなくなる。聞きたくないのに……あんな悲鳴……」  |記《き》|憶《おく》が消えても、|怨霊《おんりょう》や|魔《ま》|物《もの》の苦痛をダイレクトに感じる能力は健在というわけだ。  智は疲れたように、ふうっとため息をもらした。  少年は、ゆっくりと立ちあがり、クローゼットのある寝室へ歩き去っていく。  見送って、京介は、少し悲しくなってしまった。  いざという時の智は、思いっきり前むきでカリスマの|権《ごん》|化《げ》のくせに、普段はけっこう根暗で、ズーンと影をしょっている。 (こいつの|笑《え》|顔《がお》が見たいのに……)  その時、チェストの上の電話が鳴った。  |留《る》|守《す》|番《ばん》機能にセットしてあったのか、智の声で応答メッセージが流れる。続いて相手の声が聞こえてきた。若い男だが、アナウンサーのように、|語《ご》|尾《び》まではっきりとした|口調《くちょう》で話す。|精《せい》|悍《かん》な男のイメージがあった。 「……智、わたしだ。JOAの|時《とき》|田《た》……と言っても、君は覚えていないだろう。まあ、それはいい。……|新宿《しんじゅく》での戦いは、ご苦労だったな。だいぶ記憶に穴があいた頃だろう。君の記憶|喪《そう》|失《しつ》の原因と解決法は、わたしが知っている。これを聞いたらすぐ、新宿プリンスの801号室に来たまえ。……君一人でだ。待っている」  短い沈黙があって、受話器を置く|気《け》|配《はい》がした。ピーッと音がして、テープは自動的に切れた。 「なんなんだ……」  悪いとは思ったが、もう一度巻き戻して聞いてみる。 『……新宿プリンスの801号室に来たまえ。……君一人でだ。待っている』 「なんですか、それ」  智が、京介のそばに来る。ホワイトジーンズと|半《はん》|袖《そで》の白いコットンシャツ姿だ。何気なく片手を京介のポロシャツの肩にかけた。ごく自然な信頼の|仕《し》|草《ぐさ》に、京介はホッとする。 「今、電話入ったんだ。JOAの時田だって……知ってる?」 「時田……? 知りませんけど……」  智は、複雑な顔をした。|陰陽師《おんみょうじ》としての知識と一緒に忘れた可能性もある。 「やけになれなれしい|奴《やつ》だな。どうする。行くのか?」  さらにもう一度、テープを再生する。  智はもの思わしげに、人差し指に歯をたてた。  切れ長の|瞳《ひとみ》を細め、時田と名乗った男の言葉を考えているようだ。 「|罠《わな》かもしれない」  ややあって、|呟《つぶや》く。 「けど、わざわざ記憶を消すほどオレが|邪《じゃ》|魔《ま》なら、ほうっておけばいいはずだ。どう思います、ナルミさん」 「ほうっておけない理由ができたのかもしれないぜ」 「たとえば、なんです?」 「おまえが|新宿《しんじゅく》で……忘れたと思うけど、術使ったんだ。|記《き》|憶《おく》を消しても、体が術を覚えてるなら、敵さん、|誤《ご》|算《さん》だったかもしれないぜ」 「……|面《おも》|白《しろ》いじゃないですか」  智は、|不《ふ》|敵《てき》な表情で薄く笑った。|気《け》|配《はい》が変わる。  京介は、目の前の少年の変化にギクリとした。  凜とした顔は、|綺《き》|麗《れい》なくせに近よりがたい。  |己《おのれ》の|翼《つばさ》の強さを|試《ため》す|猛《もう》|禽《きん》のような|瞳《ひとみ》、|冷《れい》|酷《こく》な口もと。  |陰陽師《おんみょうじ》の顔だ。 「行く気か?」 「敵か味方か、わかりませんがね」 「危険だ。やめたほうが……」 「そう悪い話でもないかもしれませんよ」 「一人でっていうのが気になるな。俺もついていこうか」 「来なくていいです。オレ一人って指定されてるし」 「でも……鷹塔……」 (|嫌《いや》な予感がする。オカルト嫌いの俺が言っても、説得力ないだろうけど) 「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。何かあったら、電話入れます」 「でも、牧村のお見舞いの約束、どうすんだよ。麗子さんだって、一緒に行くんだし、俺はともかく、あのお姉さんをすっぽかすのはマズいぜ」 「あとで合流しますよ。一時間で戻りますから」  |断《た》ち切るように、智は京介に背をむける。白いコットンシャツの背中には、|拒《きょ》|絶《ぜつ》の意思がありありと表現されている。  そこには、オレに|干渉《かんしょう》しないでください、という言葉が太字で書き|記《しる》されているようだ。  京介は、|畜生《ちくしょう》と思いながら、紅葉のディスクを入れたCDラジカセを持ちあげた。 (この二重人格|野《や》|郎《ろう》……)  智はその足で新宿へむかい、京介は、アパートから持ってきた緑のマウンテンバイクで|明《めい》|治《じ》|通《どお》りぞいに、麗子との待ち合わせ場所である新宿区|戸《と》|山《やま》をめざす。  めざす病院は、|大《おお》|久《く》|保《ぼ》|通《どお》りぞいにある。|山手《やまのて》線からも地下鉄からも遠く、都営バスが走っているきりの交通の|便《べん》の悪い場所である。  病院の裏手は、二十三区内でもっとも標高が高いという|箱《はこ》|根《ね》|山《やま》だ。  京介は、麗子と病院の近くの喫茶店『ストーク』で落ち合った。 「いなくなった? マジ?」  狭い店内に、京介の悲鳴のような声が響きわたる。  安くて|旨《うま》いとタクシーの運転手たちに評判の店だ。店内に客の姿が絶えることはない。コーヒーを飲みながら時間をつぶしていた営業マンらしい中年男が、京介の叫びにうるさそうに顔をしかめて、マンガ週刊誌を閉じた。 「さっき十三階北|病棟《びょうとう》でボヤがあって、その|隙《すき》にね」  牧村冴子が姿を消したのだという。  麗子は、|苛《いら》|立《だ》たしげにセーラムをもみ消しながら、京介のはすむかいをぼんやりと|眺《なが》めた。 「あたし、見たのよ。昨日お見舞いに来た時に、黒っぽい影みたいのがあの子の頭の上にあって、|嫌《いや》だなあって思ってたら……今日これでしょ。絶対に、ただの|失《しっ》|踪《そう》じゃない」 「意識が戻って、散歩に行っただけじゃないの?」 「違うわ。あの子がいた十三階南病棟からは、|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》|詰《つ》め|所《しょ》の前を通らなきゃ、外へは出られないの。エレベーターも階段も、詰め所のすぐ前だし。誰も彼女の出ていく姿、見てないのよ」 「十三階……なんかやな階だな。ホテルなんかだとさ、そういうフロア作らないんだろ。今回の件とは関係ないか」 「関係あるのかどうかわからないけれど、場所が悪いのは確かよ。今回ボヤのあった北病棟は、|閉《へい》|鎖《さ》されてるのよ。わかる? 南病棟しか使ってないの」  麗子が早口に言う。  十六階建ての国立病院医療センターは、北病棟と南病棟がある。現在、片方の病棟が閉鎖されてるのは十三階だけだという。 「もともと、あのフロアって自殺者とか|不《ふ》|審《しん》|火《び》が多かったらしいの。特に北病棟は、この業界でも、|新宿区《しんじゅくく》のオカルト・スポットとして有名でね」  コーヒーの香りの|漂《ただよ》う店内は、空調がきいていて|居《い》|心《ごこ》|地《ち》がいい。こんな陰気な話をするのではなく、もっとのんびりしたい場所だ。 「十三階は、いわゆる|癌《がん》病棟なの。牧村さんは、たまたまそこのベッドがあいてて入っただけだから、癌とは関係ないけど。六階の外科病棟とか、四階の小児科病棟なんかよりは、深刻な患者さんが多いから、看護婦さんたちも気をつけてたらしいんだけど。それでも、北病棟は自殺者が相次いでね……。そこに寝た人が三日で死ぬ|魔《ま》の七号室ベッドとか、ペンキを塗っても塗っても浮き出てくる男子トイレの血まみれの手形とか……あんまり変な事件が多いんで、閉鎖されたって」 「や……やめようよ、麗子さん……俺、オカルト嫌いなんだよ」  京介は、こんな時でないと飲めないおごりのブルマンをすすりながら、泣き声を出す。  やっぱり、鷹塔を一人で行かせなければよかった。|怖《こわ》い思いをするのが俺だけだってのは、ものすごく不公平だ。 「マズいところに入院させちゃったわ。|地《じ》|場《ば》が悪いところにもってきて、あの子、やっぱり完全には|浄化《じょうか》されてないみたい。|桜《さくら》の|怨霊《おんりょう》の核みたいなのが残ってるんだわ」  麗子は、次から次へとセーラムに火をつけ、一口吸ってはもみ消すというもったいない作業を、無意識のうちに続けている。見かねて、京介は注意した。 「灰皿、いっぱいになっちゃうぜ。いいかげんにしたら」 「ごめん……|癖《くせ》なのよ」 「もったいないお化けが出るぜ。まったく……」 「いいじゃない。あたしのお金なんだから」  麗子はそっけなく言い、ウイスキーをたっぷり入れたアイリッシュコーヒーを口に含んだ。  終わったと思った事件が、まだ解決していないと知ったショックが、尾をひいているようだ。 「で、どうするんだよ」 「|探《たん》|査《さ》するっきゃないでしょ。乗りかかった船だし」  麗子は、バッグのなかから東京都の地図と五十円玉を取り出した。ついで、大事そうにティッシュに包んだ一本の長い髪をテーブルに置く。 「ほら、場所あけて」 「何すんのさ」  京介は、ブルマンのカップを手前に引きながら、いぶかしげに年上の女性を|眺《なが》める。麗子は今日もアニマルプリントのスーツ姿だが、デザインは少し違う。 「コックリさんの|親《しん》|戚《せき》みたいな術……って言うと|師匠《ししょう》に|殴《なぐ》られるなあ。でも、似たようなものよ」  麗子は、地図の上に五十円玉をのせ、|不《ぶ》|器《き》|用《よう》に左手の|革《かわ》手袋をはずした。  |緋《ひ》|色《いろ》の皮膚が現れる。 「まあ、見ていなさい」  黒目がちの|瞳《ひとみ》が、急に真剣になる。 「ナウマクサマンダ・ボダナン・キリカ・ソワカ……オン・アラハシャノウ」  早口の|真《しん》|言《ごん》。 「|犬神招来《いぬがみしょうらい》」  緋色の皮膚が、ぺろりとめくれあがり、|凝《こ》り固まって十センチほどの犬神の姿になる。  何度見ても、これが現実だとは信じられない。  犬神はティッシュの上の髪の毛に舞いおり、しばらく真っ黒な目を閉じていた。  やがて麗子が|印《いん》を結ぶと、|犬《いぬ》|神《がみ》が宙に舞いあがり、店内をクルクル回るとふいに姿を消した。周囲の人間には、犬神の姿が見えないので、二人がわけのわからないジェスチャーをしているようにしか見えない。  五十円玉が動きはじめた。地図の|大《おお》|久《く》|保《ぼ》通りをなぞり、|明《めい》|治《じ》|通《どお》りとぶつかると、ほぼ直角に北に曲がる。かなり速い動きだ。 「これ……どういう仕組みなわけ」  京介はブルマンを飲むのも忘れ、五十円玉の動きに見入っている。 「犬神にあの子の|霊《れい》|波《は》を追わせてるのよ。幸い、牧村さんの髪の毛は、|枕《まくら》もとにいっぱい落ちてたし。……このままだと、|馬《ば》|場《ば》方面にむかってるわね」 「なあ、もしかして、このまま動いて東京から出ちまったらどうするんだ。地図、都内だけだろ」  |好《こう》|奇《き》|心《しん》|旺《おう》|盛《せい》な京介の言葉に、麗子は肩をすくめる。 「|大丈夫《だいじょうぶ》よ。東京から外に出るようなら、犬神が|阻《そ》|止《し》するわ。あたしの戦いやすい場所を設定するのも、犬神の仕事だから」 「阻止って……?」 「|呪《じゅ》|縛《ばく》して、動きを止める。もともと|管狐《くだぎつね》の仲間なのよ。……っていってもよくわからないか。狐が化かすっていうでしょ。うちの犬神には、それと同じような力があるの。たぶん、必要なら|幻《げん》|覚《かく》でも見せて、足止めしてくれると思うわ」  五十円玉は、|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》の一角でピタリと動かなくなった。|戸《と》|山《やま》公園の左横、|百人町《ひゃくにんちょう》に近いあたりだ。 「動かないわね。……決まりだわ」  麗子が、|冷《さ》めかけたアイリッシュコーヒーを飲み干す。  京介は、じっとりと|額《ひたい》に吹きだす汗を、手のひらで|拭《ぬぐ》った。  |嫌《いや》な予感が現実のものになろうとしている。 「たしかに、あそこは|地《じ》|気《き》が悪いわ。うん……|妥《だ》|当《とう》なところだろうなあ」  |綺《き》|麗《れい》にマニキュアを塗った白い指が、ピンと五十円玉を|弾《はじ》く。  その下に現れた場所は——。  京介と智が|通《かよ》う、|諏訪東《すわひがし》高校であった。     第七章 |血花桜《ちのはなざくら》  同じ頃——。  |諏訪東《すわひがし》高校の職員室の机の上に置かれた、灰色のワープロが、誰も触れていないのに、カタカタと動きはじめる。  キーボードを透明人間が|叩《たた》いているようにも見える。  緑色のディスプレーを|覗《のぞ》きこんだ少女が、そこに打ちだされた文字を声に出して読む。 「〈|鷹塔智《たかとうさとる》は、|新宿《しんじゅく》へ移動中〉」  少女は、赤系のタータンチェックのフレアースカートと白いブラウスという姿である。  情念のこもった長い黒髪、|能《のう》|面《めん》のような顔、薄笑いを浮かべた口もと。平凡な顔だちのなかで、|瞳《ひとみ》だけが異様に強い輝きを放ち、周囲を圧倒している。 「智ちゃんに|邪《じゃ》|魔《ま》される心配だけはなさそうね」 「わたしも早く解放してくれないかね、ピヨ子。智と新宿でデートするのは、わたしなんだよ」  白衣姿の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》が、心配そうに年下の|従妹《い と こ》を見おろす。 「新宿プリンスホテルで待ち合わせなんだ。頼むよ、人の|恋《こい》|路《じ》を邪魔する|奴《やつ》は、クマに|蹴《け》られて死んじまえと言うだろ」 「それを言うなら、ウマでしょ」 「日本語は|難《むずか》しいな」 「ハーフだっていうのは、|言《い》い|訳《わけ》にはならないわよ、アーサー・セオドア・レイヴン。日本名、|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》」 「国籍は、ユナイテッド・ステーツなんだがね」 「じゃあ、忠弘なんてダサい名前やめて、アーサー時田とでも名乗ったらどう? セオドア時田でもいいけど。そのほうが心霊治療師らしいじゃなーい」 「わたしは、そういう|虚《こ》|仮《け》|威《おど》しは嫌いなんだよ」  和気あいあいとしているのか、|角《つの》|突《つ》きあっているのかわからない二人の背後に、|宝塚《たからづか》のお姉さまふうの二つの姿が歩みよる。 「|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》さま、血花桜の|種《たね》は、すでに|牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》のなかに埋めこみましたわ。次のご指示を」  重低音の声が、甘ったるくささやく。 「おや、|九《く》|曜《よう》……|息《そく》|災《さい》か」  時田は、表情も変えずに、目の前の|派《は》|手《で》な姿を見つめた。 「はい。忠弘さまも」  九曜は、ほっそりした長身の男だ。顔だちは整っているが、どこか|病《や》み|崩《くず》れた印象がある。|青紫《あおむらさき》の|甲冑《かっちゅう》と純白のマントを身にまとい、左手に|一《ひと》|抱《かか》えもある青い|薔薇《ば ら》の|花《はな》|束《たば》を持っている。短く切ってツンツンたてた髪は、見事なプラチナブロンドである。 「九曜、ご苦労ね。それで、彼女はどこに?」 「|屋上《おくじょう》で、おとなしくおいでをお待ちしておりますわ、緋奈子さま。あたくしが、|羅刹衆《らせつしゅう》を|監《かん》|督《とく》して運ばせましたもの」  別の|優《ゆう》|雅《が》な声が、割って入る。こちらは本物の女らしい。ゾクッとするような大人の|色《いろ》|気《け》を|漂《ただよ》わせている。  彼女は、九曜と同じくらい背が高い。肩まであるふわふわの髪は、|炎《ほのお》のような見事な赤毛だ。自分の髪の色を誇るように、スレンダーな体を包む甲冑の色は|深《しん》|紅《く》と金。手には、実用一点張りの白い|革《かわ》の|鞭《むち》を持っている。女の名前は、|北《ほく》|斗《と》という。 「屋上ね。わかったわ。行きましょう、たっちゃん。九曜と北斗も、一緒にいらっしゃい」  緋奈子は北斗に小さくうなずき、先に立って歩きだす。  |諏訪東《すわひがし》高校の校舎は、高台にあるため、見晴らしがいい。  屋上に上ると、眼下に広大な|戸《と》|山《やま》公園の緑が一望できた。  学校の周囲は、|桜《さくら》と|松《まつ》の木が|生《お》い茂り、吹きぬける風まで緑に|染《そ》まるようだ。 「本当に、この地の|霊《れい》|気《き》はすさまじい。今にも|膨《ふく》れあがって、地表に吹きだしそうですわね、緋奈子さま。|血花桜《ちのはなざくら》の出現ポイントに、この地を選ばれました緋奈子さまの|慧《けい》|眼《がん》には、北斗、ただ|感《かん》|服《ぷく》するばかりでございますわ」 「|胡《ご》|麻《ま》すり娘」  九曜が、ボソリと|呟《つぶや》く。  北斗と呼ばれた美女は、九曜を横目でチラと見る。|皮《ひ》|肉《にく》めいた薄笑いに、金色のルージュを塗った|唇《くちびる》を|歪《ゆが》める。 「不自然な変性男子が、何をおっしゃいますやら」 「なんですって、北斗さん。聞き捨てならないわねえ」 「九曜殿、緋奈子さまの|御《ご》|前《ぜん》でしてよ」  北斗は、ふふんと笑って、|優《ゆう》|雅《が》に赤毛をかきあげてみせる。  その肩に、どこからともなく現れた金色の|山《やま》|猫《ねこ》が飛びのった。深紅と金の甲冑の肩につかまって|上手《じょうず》にバランスをとっている。  時田忠弘は、二人のいがみあいに苦笑した。 「わたしは、九曜も北斗も、美人だと思うがね」 「まっ……」 「いやですわ、忠弘さまったら……」  ポッと|頬《ほお》を|染《そ》める二人は、もう|喧《けん》|嘩《か》のことなど忘れている。  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は、緋奈子に導かれて、給水タンクのある一角に歩みよった。黒い|触手《しょくしゅ》が、給水タンクの壁面を占領している。  その真ん中には、触手に|縛《いまし》められて苦しげにうめく少女の姿。 「お願い……帰して……家に帰して……」  うつむいた顔の両側は、長い髪に|覆《おお》われ、髪の先端は、|淫《みだ》らに|蠢《うごめ》く触手に同化していた。ピンクのパジャマを着た体は、高校生とは思えないほどガリガリに|痩《や》せて小さい。  緋奈子が合図すると、触手が、するすると少女から離れた。  急にささえがなくなって、ガクリと|膝《ひざ》をつく姿。緋奈子が|妖《よう》|艶《えん》な声でささやきかける。 「牧村さん……その顔の|痕《あと》、なおしてほしい?」  ボロボロになった少女の顔が、ゆっくりと上を見る。左の|頬《ほお》に、|無《む》|惨《ざん》な|火傷《や け ど》の痕があった。  泣いて赤くなった|瞳《ひとみ》が、|哀《あい》|願《がん》の色を浮かべて緋奈子を見つめる。 「誰……あなた……」 「心配しなくていいわ。緋奈子が味方になってあげる。……ここにいる時田忠弘は、日本でもトップクラスの|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》なの。そんな火傷なんか、半日でなおしてしまうわ」 「なおる……の……?」  緋奈子に|脇《わき》|腹《ばら》をつつかれ、時田は商売用のスマイルを浮かべる。 「|大丈夫《だいじょうぶ》だ。まだ若いからな。簡単な治療で、破壊された|真《しん》|皮《ぴ》を再生させることができる。|跡《あと》|形《かた》もなくなおせるはずだ」 「跡形もなく……?」  少女の瞳のなかに、話がうますぎるという|警《けい》|戒《かい》|心《しん》と、狂おしい希望の色が駆けめぐる。  信じようか、信じるまいかと迷っている。その動揺につけこむように、緋奈子がそっとささやく。 「簡単なことよ。あなたが一つだけ、協力してくれさえすれば、無料で何もかもよくしてあげる。|難《むずか》しいことじゃないわ」 「協力って……?」  時田は、少女と緋奈子の会話をそれ以上聞かずに、|踵《きびす》をかえした。  今までの経験からいっても、牧村冴子の説得にはそう長くはかかるまい。  緋奈子は、冴子の肉体を|血花桜《ちのはなざくら》の|培《ばい》|養《よう》|体《たい》として使い、その心臓に東京の|地《ち》|霊《れい》|気《き》を集めたのち、彼女の|魂《たましい》をぬいて、体だけを残すだろう。火傷の痕を治療した|綺《き》|麗《れい》な体だけを。 「また一人……|式《しき》|神《がみ》が増えるというわけだ」  式神は、紙の|呪《じゅ》|符《ふ》から作ったり、動物の霊や弱い神を|捕《ほ》|縛《ばく》して|使《し》|役《えき》したりするのが一般的だが、緋奈子の場合は、すさまじい|妖力《ようりょく》で人間を式神に変える。九曜も北斗も、もとは人間だ。 「ま、それもいいだろう」  これ以上、ここで|邪《じゃ》|魔《ま》されていると、本当に智とすれ違ってしまう。 「たっちゃん、時田忠弘! あなた、まさか、変なこと考えてないでしょうね」  背後から聞こえてくる緋奈子の声が、|邪《じゃ》|悪《あく》な|笑《え》みを含む。 「裏切ったら、許さないわよ」 「ただのデートだよ、ピヨ子。気をまわすな」  時田は、肩ごしに手をふってみせる。  |京介《きょうすけ》と|麗《れい》|子《こ》が、|諏訪東《すわひがし》高校へむかうのと入れ違いに、JOA所属の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は高校を出て、|西武新宿線《せいぶしんじゅくせん》|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》駅へむかって歩きだす。      *    *  白系で統一されたホテルの部屋は、シンと静まりかえっていた。  銀ブチ|眼鏡《め が ね》にかこまれたハシバミ色の目が、ゆっくりと部屋の中央を見る。  満足げな|笑《え》みが心霊治療師の|頬《ほお》に浮かびあがった。 「ようやく戻ってきたな……智」  部屋の中央を占領するダブルベッドの上には、|端《たん》|正《せい》な顔だちの少年が、ぐったりと横たわっていた。|半《はん》|袖《そで》のコットンシャツとホワイトジーンズ姿だ。  腰まである薄茶の髪を揺らし、音もなく|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の|陰陽師《おんみょうじ》に歩みよった時田は、意識のない|額《ひたい》にそっと白い指を置いた。 「智……」  少年の|目《ま》|蓋《ぶた》が震え、|瞳《ひとみ》が薄くひらく。 「ん……くぅっ……!」  激しい苦痛の色が、切れ長の瞳をよぎった。  ベッドサイドに立つ時田の白衣姿に気づいた智の表情が、複雑に変化する。  |安《あん》|堵《ど》から|不《ふ》|審《しん》、不審から意識のないところを見られた|羞恥《しゅうち》、そして明確な|怒《いか》り。 「……ここは……」 「苦しくて悲しいか、智」 「あんた……は……」 「時田忠弘。JOA所属の心霊治療師だ」 「あ……電話の……」  驚いたように飛び起きようとする体に、時田の体が重なる。スプリングのきいたベッドが、二人ぶんの体重に激しく上下した。 「なん……なんなんですか、あんたは! やめてください!」 「牧村冴子の苦痛に呼ばれているな。……かわいそうに」  十六の少年と|精《せい》|悍《かん》な体格の大人では、|彼《ひ》|我《が》の体力差がありすぎる。  戦いは数秒で終わった。  智は、きつい|瞳《ひとみ》で時田を見あげた。  両手、両足を|封《ふう》じるようにのしかかられて、まったく動きがとれない。 「なんのつもりです……時田忠弘」 「君を楽にしてあげたい」  時田はゆっくりと身を|屈《かが》める。冷たい薄茶の髪が、ふさぁっと智の胸にかかった。  |顎《あご》をなぞるような口づけに、智は顔をしかめた。  |新宿《しんじゅく》プリンスホテルのロビーに入った時、急に心臓が痛みだしたのは覚えている。それが牧村冴子の苦痛だと明確に理解したところまでは、正気だったと思う。  だが、その後は、伝わってくる絶望と恐怖のすさまじさに、意識が|朦《もう》|朧《ろう》となってしまい、何がどうなってこの状況になったのかは、|皆《かい》|目《もく》わからない。 「あんた……なんなんです」 「君が苦痛を感じるのは、|怨霊《おんりょう》や|魔《ま》の苦痛をダイレクトに感じる|感《かん》|応《のう》能力があるからだ。今もあの娘……牧村冴子の苦痛に震えている」  時田は|愛《いと》しげに、|眉《まゆ》をよせた智の|綺《き》|麗《れい》な顔を見おろした。 「|記《き》|憶《おく》を消し、|陰陽師《おんみょうじ》としての能力を封じてさえ、君はこうして彼女の苦痛を受け入れつづける。その感応能力あるかぎり……」  少年の|気《け》|配《はい》が|刃《やいば》のように|鋭《するど》くなる。瞳のなかに|炎《ほのお》が燃えはじめた。 「敵ですか……あんた。オレの記憶を|封《ふう》|印《いん》したのは……」 「君は何度でも立ちあがってくる。君が痛々しいよ」  白い指が、コットンシャツの胸ボタンを器用にはずしていく。胸にヒヤリとする指先の感触。  もがこうとしたが、頭がガンガン痛んで、口を開くのさえおっくうだ。 「その重荷を永遠に捨てる道がある。捨てたくないか……何もかも」  |誘《ゆう》|惑《わく》するような声。智は、ギクリとした。いつか、どこかで同じ声を聞いた記憶がある。 「時田……さん……」 「思い出さないかね」  |冷《れい》|酷《こく》なハシバミ色の瞳のなかに、|魂《たましい》を吸いこまれるような|錯《さっ》|覚《かく》をおこす。 「誰……あんた……誰、です……オレの何……」 「想像がつかないかね」  |淫《みだ》らな|笑《え》みが、時田の|唇《くちびる》をかすめる。 「これは君がわたしを忘れてしまった罰だ」  |唇《くちびる》を奪われた時も、智は動けなかった。全身の細胞の一つ一つが、時田の口づけに反応する。ひどく|懐《なつ》かしい。 「ふ……うっ……」 「君の|感《かん》|応《のう》能力を消すには、その|研《と》ぎ|澄《す》まされた|霊《れい》|気《き》を乱してやればいい。君の霊気を乱すのは、わたしならば簡単だ。ほら、もう……乱れはじめている」 「くう……ん……っ……」  ようやくのことで、智は顔をそむけた。熱い|舌《した》と唇が追いかけてくる。|執《しつ》|拗《よう》に責め立てられて、頭がボーッと|霞《かす》みはじめた。今まで感じたことのない気持ちになる。  全身を|苛《さいな》む苦痛が、|鎮《ちん》|痛《つう》|剤《ざい》でも使ったように|鈍《どん》|化《か》し、少しずつ消えていく。 「君の感応能力を消せるのは、世界じゅうでこのわたしだけだ。忘れるな……」 「あ……くっ……」 「君が望む回数だけ、何度でも天国へ行かせてやろう。ひとこと……言いたまえ。楽になりたいと」  |陶《とう》|然《ぜん》として時田の|愛《あい》|撫《ぶ》に身をゆだねた智の胸に、白い指が触れる。 「智……」  その時、金属製のドアがはずれ、すさまじい|轟《ごう》|音《おん》をあげて内部に倒れこんだ。 「そこまでだ!」 「その手を離しなさい!」  殺気だった三つの姿が、室内に駆けこんでくる。  時田は、素早く智から身を起こし、|舌《した》|打《う》ちした。 「|邪《じゃ》|魔《ま》する気か……」      *    *  二十分ほど前のことだ。  照りつける六月の日差しのなか、二人の影は地面に濃く落ちている。  |諏訪東《すわひがし》高校正門前である。  京介は、緑のマウンテンバイクを道路脇に止め、麗子から黒いCDラジカセを受け取った。CDラジカセのなかには、|紅葉《も み じ》の黄色いディスクが入っている。 「ひどい……」  うねる|触手《しょくしゅ》が、窓ガラスからダラリと落ちてきては、コンクリートに穴をあける。  期末テスト前の部活動停止期間中とあって、学校の中庭にも人影はない。 「ねえ……見て……」  放心したような麗子の声に、京介は顔をあげた。 「何……え……|嘘《うそ》だろ……」  京介は、これも悪夢の続きだと思いたかった。  天高く、まさに天高くとしか表現できない位置に、|桜《さくら》が咲いていた。|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》一丁目の空を|覆《おお》う巨大な桜|天井《てんじょう》。  世界樹のように、天にむかってそびえる桜の巨樹。その|幹《みき》にそって、視線をおろしていくと、諏訪東高校の|屋上《おくじょう》にたどりつく。 「遅かったわ。牧村さん一人の力じゃない……こんなの……」  |深《しん》|紅《く》の|唇《くちびる》がかすかに動く。 「やっぱり誰かが……何かが彼女を|誘《おび》きだしたんだわ」 「牧村さんとあの桜、関係あるんですか」 「あるわ。……|血花桜《ちのはなざくら》っていうの、あれは。人の|怨《おん》|念《ねん》を|苗《なえ》|床《どこ》にして育ち、花が咲けば、大地の|霊《れい》|気《き》を吸い取って無限に大きくなっていく。かわいそうに……牧村さん、血花桜の苗床になったのよ。それだけの怨念が、彼女のなかに残っていたのね……」  |梅雨《つ ゆ》入り前の風に吹かれて、時ならぬ桜の枝は、ひっそりと音もなく揺れていた。  通りすぎる人々の誰一人として、この異様な光景に気づいていない。 「嘘だ……」  京介は、あまりのシュールさに笑ってしまった。理性が|麻《ま》|痺《ひ》しかかっている。 「笑ってる場合じゃないわよ」  力なく麗子が|呟《つぶや》く。 「このままだと東京が|壊《かい》|滅《めつ》するわ」 「は……! すごすぎる。|冗談《じょうだん》だろ。いきなり東京が壊滅なんて……麗子さん、ちょっと|飛《ひ》|躍《やく》しすぎじゃないの?」  言いながら、京介は、もうことは冗談ではすまないのだと知っていた。 「飛躍してるわけじゃないわ。……あの|桜《さくら》は、いわば大地そのものの|霊《れい》|気《き》、地霊気を吸いあげる装置なの。ポンプみたいなものだと思ってくれていい」 「それが、東京壊滅とどんな関係があるのさ」 「地霊気を吸い尽くされた大地は|気《け》|枯《か》れ|地《ち》、すなわち|汚《けが》れ|地《ち》となる。東京が汚れ地となれば、今ほど大量の人間を住まわせておくことはできなくなるわ。あまり知られていないことだけれど、その土地は、その土地に応じて住める人間の数が決まっているのよ。霊気の限度をこえて人が住みつけば、その土地は|病《や》んでいく。|魔《ま》が|集《つど》いはじめる」  呟く麗子の|瞳《ひとみ》は、暗く沈んでいる。 「人間っていうのはね、いるだけで大地の気を乱す存在なの。だから、古代から|都《みやこ》は清らかな土地に造られる。多少、地霊気が乱れても|平《へい》|穏《おん》であるようにね」 「じゃあ、東京が汚れ地になったら……」 「霊的な|浄化作用《じょうかさよう》で、大きな災害が起こるわ。|東《とう》|海《かい》大地震クラスのね。……大地のバランスを守るために、人がたくさん死ぬわ」  京介は、ブルッと身震いした。あの桜がただの|幻《げん》|覚《かく》ならいいと思った。 「マズくない……麗子さん、それって?」 「マズいに決まってるでしょ。ああ、もう、智ったら、こんな大事な時に|新宿《しんじゅく》へヒョコヒョコ行っちゃうなんて……!」 「あいつんちの|留《る》|守《す》|電《でん》に伝言は残してきたけど、行き違いで病院行ってたら、つかまらないぜ。どうしよう」  二人で行くのは気がすすまない。なにしろ、麗子には|封《ふう》|印《いん》の力しかないのだ。  彼女にも|戦《せん》|闘《とう》|時《じ》の攻撃力や|防御力《ぼうぎょりょく》はあることはあるが、智のそれに比べれば、月とスッポン。たとえ|記《き》|憶《おく》がなくても、智といたほうが心強い。 「ええい、もう! 行くわよ、京介君!」 「げっ……行く気? マジ?」 「時間がないのよ。一刻を争うわ。さもないと、智が帰ってきた時には、|高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》が地上から消滅してるってことだってありうるんだから」 「馬場だけなくなってすむんなら、俺、それでもいいけど」 「京介君」 「わあ……|嘘《うそ》、嘘です! 麗子さん、そんな|怖《こわ》い顔しないで!」  逃げ腰になっている京介の目の前で、アスファルトが勢いよく盛りあがった。  地中からの圧力に耐えかねて|亀《き》|裂《れつ》の入った部分から、お|馴《な》|染《じ》みになった黒い|触手《しょくしゅ》がにゅるにゅると出現する。 「ひ……!」  京介は、思わず悲鳴をあげかけて、|拳《こぶし》をきつく握りしめた。 (だから、俺はオカルトが大嫌いなんだ) 「男なら、いちいちビビらない!」 「だって、麗子さんっ!」  素早く後ずさったとたん、通行人にぶつかって足を踏んでしまう。  中年の男性と、小学生くらいの子供二人の組み合わせだ。家族サービスするお父さんといったところか。 「すいませんっ!」  父親らしい男に、通行の|邪《じゃ》|魔《ま》だと言わんばかりの目で|睨《にら》まれる。京介は|焦《あせ》って道路脇に|退《たい》|避《ひ》した。麗子が、逃がさないわよ、という顔で追ってくる。 「どうしよう。みんな、あの|桜《さくら》も触手も見えてないぜ。……見えないんなら実害もないの?」 「残念でした。どっちにしても、東京の|地《ち》|霊《れい》|気《き》を奪われたら、結果は同じよ。この状況を甘くみないほうがいいわ」 「……べつに、甘くみてるわけじゃねーけどさ」 「|覚《かく》|悟《ご》はいいわね。突入するわよ」  麗子の目がすわっている。京介は、逃げたいと思いながらも、|蛇《へび》に睨まれたカエル状態で思わずコックリうなずいてしまう。  CDラジカセの演奏ボタンを押すと、やたら明るい紅葉が出現した。 「チャオー! あ、今日はマスターいないじゃーん。やったね。ツーショット? |旦《だん》|那《な》ってば、けっこう|隅《すみ》におけないねえ」  京介は、ぐったり疲れた。      *    *  真っ赤なフェラーリから降りたったのは、三人の男。  正確には、二十五歳前後の青年二人と十代の少年一人だ。  カーラジオが、やかましくアップテンポの曲を流している。 「う、嘘ぉーっ! いやーっ! 超好みぃーっ!」 「うれしいかもしれない……ナイスな筋肉じゃーん」  |桃《もも》|子《こ》はピョンピョン飛び|跳《は》ね、|里《り》|香《か》も口に両手をあてて目を皿のようにしている。  桃子が目をつけたのは、いちばん先頭に立っている|金《きん》|髪《ぱつ》の美青年である。  さすがに、|自称美形評論家《じしょうびけいひょうろんか》の彼女がチェックするだけあって、三人のなかでいちばん整った顔だちをしている。  アーリア系を思わせる冷たい|美《び》|貌《ぼう》だ。  高い|鼻梁《びりょう》と澄んだ水色の|瞳《ひとみ》、薄い|唇《くちびる》。一流モデルも|嫉《しっ》|妬《と》のあまり発狂しかねない|完《かん》|璧《ぺき》な|肢《し》|体《たい》。イメージとしては|豹《ひょう》だろう。  だが、顔とプロポーションは超一流だが、服装はいただけない。  |昼《ひる》|日《ひ》|中《なか》から|青藍色《せいらんしょく》のタキシードにクリーム色のタイというのは、遊びすぎだ。  きざを通りこしてバカに見える。  美形だけど、変な外人。まあ、普通はそう思うところだ。  ちなみに、自称筋肉評論家の里香が目をつけたのは、青藍色のタキシードの後ろにいる純和風の大男である。身長は、軽く二メートルを|超《こ》えるだろう。  これまたTPOを無視した|縞《しま》の|着《き》|流《なが》し姿で、はだけた胸もとには|瘤《こぶ》のように筋肉が盛りあがっている。  短く刈りあげた真っ黒な髪、太いうなじ、ぎょろりとした目。  はっきりいって、体育会系にありがちな「フンドシの似合う兄貴」タイプである。普通、高校生の女の子が目をつける種類の男ではない。  フェラーリに乗ってきたくせに、太くてごつい足は、|下《げ》|駄《た》ばきだ。似合う、似合わない以前に、許せないものがある。 「きゃーっ! ハッピーよう! 里香、来てよかったね、来てよかったねっ!」 「ああ、もういつ死んでもいいー。わが人生に|悔《く》いなーし!」 「美形よう、|超絶《ちょうぜつ》美形ようっ!」 「|素《す》|敵《てき》な筋肉ー! ……ふふふ」  だが、二人はそれぞれ自分の好みの男しか目に入っていない。 「すみません、うかがいますけど」  やわらかな声が、女の子二人の|嬌声《きょうせい》をぬって呼びかける。 「はっ、はーいっ! なんですかぁっ!?」 「はいはいはいっ! なんでも|訊《き》いてくださいっ!」  桃子と里香に、グググググッ……とつめよられたタキシードの男と着流しの大男が、たじろいだように後ずさる。  その二人の後ろから、第三の人影が顔を出した。ブラックジーンズに黒いノースリーブのシャツを着ている少年だった。 「え……ええーっ!?」 「ぎょぇーっ!? マジ!?」  |高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》の青空に、けたたましい叫びが響きわたる。  少年は、うるさそうに顔をしかめ、半歩ほど身をひく。 「た、鷹塔クンっ!?」 「何、何っ!? どうして、なんでっ!?」  |桃《もも》|子《こ》と|里《り》|香《か》につめよられた少年は、背中まである長い黒髪を風になびかせ、|妖《よう》|艶《えん》な|笑《え》みを浮かべる。  顔だちや背格好は、智と|瓜《うり》二つだ。しかし、よく見ると|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が違う。|研《と》ぎ|澄《す》まされた日本刀のように、|怜《れい》|悧《り》で|潔《いさぎよ》い印象の智と比べ、この少年はどこか暗い|退《たい》|廃《はい》|的《てき》な空気を|漂《ただよ》わせている。同じ日本刀でも、|妖《よう》|刀《とう》の部類だ。 「誰……この人。鷹塔クンじゃない……」 「え……そうかなぁ。そっくりじゃん」  里香が首をかしげた。 「よけいな|詮《せん》|索《さく》はためになりませんよ」  少年は、片手をあげ、桃子と里香の目の前で指をひろげた。スーッと|五《ご》|指《し》が宙を流れる。  同時に、桃子と里香の|瞳《ひとみ》がトロンとなった。 「ん……何……」 「あたし、急に眠くなっちゃった……」  少年は冷たく笑い、パンと両手を打ちあわせた。 「んっ? 何、何っ?」 「あれ……どうしたんだろ」  少女二人は顔を見あわせ、照れたように笑った。 「なんかさあ、あんまり好みの筋肉なんで、|茫《ぼう》|然《ぜん》|自《じ》|失《しつ》しちゃったね」 「あたし、あたしっ、|失《しっ》|神《しん》|寸《すん》|前《ぜん》っ!」 「おぬしら、|新宿《しんじゅく》までの道を知っているか」  少年に目くばせされて、|着《き》|流《なが》しの大男が、ヌッと前に出た。外見どおり、声もものすごく低くて、ドスがきいている。 「新宿……? すぐ近くですけどぉ……」  高田馬場から新宿へ行けずに道に迷うとしたら、そいつは道路標識の読めない外人か、よっぽどの|田舎《い な か》モンに違いない。なにしろ、|明《めい》|治《じ》|通《どお》りをまっすぐ進めばいいだけなのだ。  もしかして、このあぶなそうな着流しの兄ちゃんは、地方から出てきたヤのつく|方《かた》だろーか……と桃子は|焦《あせ》ったが、里香の目は、すでにハート形になっている。 「し、新宿ですねっ! あた、あたし、知ってます! あ、ご案内しますねっ!」 「ちょ……ちょっと、|里《り》|香《か》。まずいよ。いきなり知らない|野《や》|郎《ろう》の車なんか……!」  いつもは|桃《もも》|子《こ》が止められるほうなのだが、今回ばかりは勝手が違う。  前に出ようとするオレンジ色のツーピースの|裾《すそ》をつかんで、ジタバタと引き止める桃子の横に、タキシードの美青年が移動してくる。  はっと思った時には、桃子の手に美青年の手が触れている。 「きゃっ……!」  これは、うれしい悲鳴というやつだ。 「はーい、お嬢さん、俺たちはあやしいもんじゃないんだ。|新宿《しんじゅく》までナビしてくれたら、お礼はするぜ」 「お、お礼……?」 「デートとキスとどっちがいい? あ、両方つけちゃおうか」 「行く、行くっ! 行きますっ!」  あ、ちょっと軽はずみだったかな、と思ったのも一瞬だけ。絶世の|美《び》|形《けい》の微笑にくらくらきた桃子は、|顔《がん》|面《めん》をゆるませて里香の隣のシートに並んで座った。 「じゃ、ナビよろしくお願いしますね」  ステアリングを握った少年が、肩ごしにささやく。 「え……免許は? 持ってるような|歳《とし》に見えないけど」  |焦《あせ》って桃子が尋ねる。 「持ってなくても運転はできますよ」 「い……いいのっ!? 無免許でっ! まずくなーい!?」 「平気ですよ」 「だってぇーっ! あぶないよーぉ! あーん、もうっ! 人の話、聞いてないっ!」  けたたましい|嬌声《きょうせい》を発する真っ赤なフェラーリは、新宿にむかって走りだした。      *    *  |諏訪東《すわひがし》高校の玄関で、京介はそっと後ろをふりかえった。 「鷹塔……来てくれよ……」 「ほら、何やってるの、京介君。気合い入れてちょうだい。いっきに突っこむわよ」  麗子が京介の肩をどやし、ハイヒールを鳴らして歩きだす。  その背中が、ふいに小さく震える。 「や……だっ! |邪《じゃ》|気《き》がすごい……!」  |犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いは、玄関をくぐるのをやめて、数歩後ずさる。 「気合い入れるんだろ、麗子さん」 「わ、わかってるわよう!」  これは、もう|麗《うるわ》しい足のひっぱりあいだ。紅葉が|呆《あき》れて|眺《なが》めている。 「マスターがいないと、やっぱりダメだね。二人とも|情《なさ》けないよ……」  その時、二人と|式《しき》|神《がみ》の周囲で、大気が|陽炎《かげろう》のように揺らいだ。  二十匹以上の|獣面人身《じゅうめんじんしん》の化け物どもが、いっせいに空中から出現する。  顔だけが|狼《おおかみ》や|狐《きつね》や牛で、首から下は、Tシャツやスーツを着た普通の人間の体だ。手に手に|槍《やり》や|鎌《かま》を持っている。 「|羅刹衆《らせつしゅう》!?」 「麗子さんっ、なんだよっ! これはぁっ!」 「見ればわかるでしょ! 化け物よ、化け物!」 「なんで|白昼堂々《はくちゅうどうどう》、こんなのがいるんだよ! バッ……バカ! 来るな!」  京介は、襲いかかる羅刹衆の|股《こ》|間《かん》をバッシュで|蹴《け》りあげ、突きだされた槍を逆にもぎとった。羅刹衆の体力や|瞬発力《しゅんぱつりょく》は、普通の成人なみというところか。これが一対一の|喧《けん》|嘩《か》なら、中学時代は不良でならした京介の敵ではない。だが、いかんせん、相手は数が多い。しかも、|刃《は》|物《もの》を持っている。 「敵は|雑魚《ざ こ》ばっかだぜ! いっきにたたむぞー!」  カラ元気を出してはみたものの、京介は内心、とんでもないことに首をつっこんだと後悔していた。無事にここを出られればいいのだが。      *    *  |明《めい》|治《じ》|通《どお》りを走っていた真っ赤なフェラーリが、いきなり速度をあげたかと思うと、|靖《やす》|国《くに》|通《どお》りに入ったとたんスピンした。 「ぎゃあーっ! |嫌《いや》、嫌、死ぬーっ!」 「やだーっ! 助けてっ!」  |桃《もも》|子《こ》と|里《り》|香《か》が悲鳴をあげるのと同時に、後続車が事故を避けようと歩道に乗りあげ、勢いあまってビルに激突する。|派《は》|手《で》なクラッシュ音が響きわたった。前を走っていた白いカローラがパニック状態で左右に|迷《めい》|走《そう》し、何を思ったか急ブレーキをかける。  この距離では、避けられない。みるみるうちに白い車体が|迫《せま》ってくる。 「ひーっ! やめてーっ!」 「|嫌《いや》ーっ! 死んじゃうーっ!」 「|吉《よし》|野《の》! |氷《ひ》|上《かみ》!」  無免許運転していた少年が、ステアリングを握ったまま|鋭《するど》い声で叫ぶ。 「おうっ!」 「まかせろっ!」  あれよあれよという|間《ま》に、|金《きん》|髪《ぱつ》美青年と|着《き》|流《なが》しの大男が、それぞれ|桃《もも》|子《こ》と|里《り》|香《か》を横抱きにして、|疾《しっ》|走《そう》する車から飛び降りる。 「ぎゃああああーっ!」 「ひいぃぃぃぃーっ!」  もう理性の吹っとんだ二人は、ただ悲鳴をあげるだけだ。せっかく|憧《あこが》れの|美《び》|形《けい》と筋肉男に抱きかかえられていても、ほとんどそれを認識できない。  先行車にぶつかる寸前、長い黒髪をなびかせた少年は、チラと路上の四人をふりかえった。四人が無事なのを確認すると、いっきにステアリングをきって、フェラーリを地下鉄の入り口につっこませる。  同時に、自分はドアを|蹴《け》り開け、体をまるめてアスファルトに転がる。ふわっと一瞬、長い黒髪が|翻《ひるがえ》った。  耳をつんざく爆発音。|大《たい》|破《は》した真っ赤なフェラーリから、|紅《ぐ》|蓮《れん》の|炎《ほのお》が吹きあがっている。 「ああ……あ……あ……」 「ど……どう……どうしよう……」  次々に|玉《たま》|突《つ》き|衝突《しょうとつ》した車が、|靖《やす》|国《くに》|通《どお》りのあちこちで爆発しはじめた。助けを求める苦しげな悲鳴が、炎のなかから聞こえてくる。 「無事か、|氷《ひ》|上《かみ》、|吉《よし》|野《の》!?」  |膝《ひざ》のバネをきかせて、素早く立ちあがった黒髪の少年が、四人に駆け寄ってくる。 「おう、わしは無傷よ」  氷上と呼ばれたほうの筋肉男は、里香をポンと路上に降ろしながら、さわやかに笑う。 「誰にむかって|訊《き》いている。俺サマは天才! ドジ踏むわきゃねーよ!」  吉野と呼ばれた金髪美青年も、横抱きにしていた桃子を降ろすと、パッパッとタキシードの|埃《ほこり》を払う。 「それは|重畳《ちょうじょう》。ぎりぎりのタイミングでした」  少年は|皮《ひ》|肉《にく》めいた表情で|微笑《ほ ほ え》む。 「おぬしに言われる覚えはない。わしは先に行くぞ」  氷上が|縞《しま》の着物の|裾《すそ》をはしょり、女の子の腰ほどもある|太《ふと》|股《もも》をむきだしにして走りだした。後ろから見ると、かなり見苦しい姿だ。 「目……目が腐る……」  桃子は、思わずうめいて、よろよろしてしまう。隣を見ると、すでに立ちなおった里香が目をハート形にしてうっとりしている。 「|素《す》|敵《てき》な筋肉……」 「お|二《ふた》|方《かた》、|新宿《しんじゅく》までの案内、ご苦労でした。安全なところに|避《ひ》|難《なん》してください」  智そっくりの少年は、冷たい|口調《くちょう》で言い捨て、そのまま|氷《ひ》|上《かみ》のあとを追って走りだした。|吉《よし》|野《の》も、少し遅れてあとを追おうとする。 「ちょっと待ってよう。なんなの、これはぁ!?」  |桃《もも》|子《こ》は、吉野のタキシードの|袖《そで》|口《ぐち》をつかんだ。 「教えて、教えてよう。ずるいわ。勝手に|内《うち》|輪《わ》でわかっちゃって。あたしにも教えてー」  困ったようにアーリア系の|美《び》|貌《ぼう》が、桃子を見おろす。 「|怖《こわ》くないの、お嬢さんは?」 「うんっ! だって、|美《び》|形《けい》がそばにいるでしょっ!」 「……そういう問題か」 「うんっ!」  桃子の目もハート形になってしまう。はあ……と、|金《きん》|髪《ぱつ》美青年はため息をついたようだ。 「いいから、おまえらは、とっとと安全なところへ行きな。ここから先は、もうお子さまの出番じゃねーんだよ」 「ひ……ひどいっ! あたしを捨てるのねっ! デートしようって言ったのにぃー!」 「ちょっと、ちょっと、桃子ってば、そういう話じゃないでしょ」 「だってぇ……! こんな美形に声かけられたの、初めてなのにぃー」  |青藍色《せいらんしょく》のタキシードを着た金髪美形は、桃子を見おろし、たらしこむような甘い微笑を浮かべた。 「|可愛《か わ い》い女の子に|怪《け》|我《が》なんかしてほしくねーから、言ってんだよ」 「か、可愛い女の子っ?」 「そ、あんたのことだよ、お嬢さん。じゃあなっ!」  桃子がでろーっとなった一瞬、吉野は身を|翻《ひるがえ》して、|新宿《しんじゅく》プリンスホテルのほうへ駆けだしていった。 「へっ……?」 「何よう……あいつら、ちょっと変よ」  桃子と|里《り》|香《か》は、思わず顔を見あわせた。  数秒後、二人はそろって、吉野のあとを追って走りだしていた。  |好《こう》|奇《き》|心《しん》が服を着たような年ごろである。美形を|追《つい》|跡《せき》するというスリルにも酔っていた。     第八章 |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》  |智《さとる》は、ダブルベッドに身を起こし、乱入してきた三人の男を|凝視《ぎょうし》した。  |凜《りん》とした顔は、あらぬ姿を目撃された|羞恥《しゅうち》でカッと|火《ほ》|照《て》っている。 「なん……なんですか、あんたたちは」  三人の先頭に立っていた智にそっくりの少年が、薄く笑う。黒いノースリーブのシャツとブラックジーンズ、長い黒髪にまとわりつく|退《たい》|廃《はい》|的《てき》な空気。こうして並ぶと、|不《ぶ》|気《き》|味《み》なくらい対照的な二人だ。 「お|邪《じゃ》|魔《ま》でしたか。助けを求めていらっしゃったような気がしましたが」  少年は、|慇《いん》|懃《ぎん》|無《ぶ》|礼《れい》な|口調《くちょう》で言う。  少年の両側に立ったタキシードの|金《きん》|髪《ぱつ》美青年と|着《き》|流《なが》しの大男は、それぞれ腕をくんでいる。  ただし、表情は正反対だ。金髪の青年は、ニヤニヤ笑っているが、大男のほうは|苦《にが》|虫《むし》を|噛《か》みつぶしたような顔をしている。  |時《とき》|田《た》が、ため息をついたようだった。 「君たちは、わたしが思っていたよりモラリストなのかね。言っておくが、これは自由恋愛だぞ」 「智は|嫌《いや》がってるぜ」  金髪青年が|流暢《りゅうちょう》な日本語を、|嘲《あざけ》るように発音する。 「|吉《よし》|野《の》、呼び捨てはおよしなさい。なれなれしい」  少年が、片手をあげて、吉野を制する。 「蓮川、およしなさいってのはなんだ。|同《どう》|輩《はい》の俺サマにむかって、その言い草はねーだろ」  蓮川と呼ばれた少年は吉野の抗議に肩をすくめ、ツカツカと智に歩みよってくる。長い黒髪がふわっと|翻《ひるがえ》った。 「時間がありません。一緒に来ていただきましょう」 「なんなんですか、あんたたちは」  蓮川は、智の問いには答えない。 「|百《もも》|瀬《せ》|麗《れい》|子《こ》と|鳴《なる》|海《み》|京介《きょうすけ》を、死なせたくはないでしょう」  智の|瞳《ひとみ》がスーッと細められた。声が、真剣になる。 「あの二人に何があったんです?」 「行くな、智」  時田が、少年の肩に手を置いた。 「君には関係ないことだ」 「関係ない……? あんた、何を知ってるんです?」  時田は、ほかの三人を|黙《もく》|殺《さつ》し、智だけを見つめる。 「君を行かせたくない。行けば、君は傷つくだけだ」 「急いでください、|血花桜《ちのはなざくら》が咲く」  |蓮《はす》|川《かわ》が合図すると、|金《きん》|髪《ぱつ》青年と大男がスッと智の両側に移動する。 「やはり、君たちの連れていこうとしているのは、|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》のところか。それだけは、許さない」  時田の声が、|不《ぶ》|気《き》|味《み》に冷たくなる。 「緋奈子……?」  智は、その名前を口にした。何かが胸のなかで動きはじめる。  聞き覚えのある名前。苦しいまでに|懐《なつ》かしい。それなのに、その名をもつ女の顔は思い出せない。 「今……緋奈子って言った……」  時田が肩ごしに、ゆっくりとふりかえる。銀ブチ|眼鏡《め が ね》の奥の|瞳《ひとみ》には、驚きの色があった。 「思い出したのか、彼女を。覚えているのか」 「名前だけ……どこかで聞いたことが……」 「彼女のことだけは忘れないのだな、君は」  ため息のような声で|呟《つぶや》くと、時田は智の|頬《ほお》を片手でなぞる。|嫌《いや》がってそむける|顎《あご》をつかみ、真正面から瞳を|覗《のぞ》きこんだ。 「どうしてだ、智……智……あんな女のどこがいい。君の|記《き》|憶《おく》をこんなにして、必要ならば君を殺すこともためらわない女だぞ」  ふいに、|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》は激情に耐えかねるように智から離れ、室内をグルグル歩きまわりはじめた。|冷《れい》|酷《こく》な顔が、|歪《ゆが》んだ笑いを浮かべる。 「オレの記憶をこんなに……って……緋奈子って人が?」 「そうだ」 「何者なんです。緋奈子といい、あんたといい……オレのなんなんです」  智は、時田が次にどんな行動に出るのか予想できず、全身を緊張させたまま、押し殺した声で尋ねる。  まさか、この三人の前でさっきのような行動には出ないと思うが、絶対にありえないとも断言できない。  またあんな|真《ま》|似《ね》をされるくらいなら、|舌《した》を|噛《か》みきってやる。力でかなわないのは確かだが、うまく|隙《すき》を探せば逃げだせるに違いない。  よりによって、時田とあんなことをするために、|新宿《しんじゅく》プリンスホテルに来たわけではない。      *    *  はずれてなくなったドアの向こうでは、二つの人影が声を殺して、この場の様子を|眺《なが》めていた。言わずと知れた、|桃《もも》|子《こ》・|里《り》|香《か》のコンビである。 「な、な、何っ……すごいっ」 「|鷹《たか》|塔《とう》クンって……」  ただ者じゃない、と目と目で会話しあう。 「男同士の五角関係のもつれで、|痴《ち》|話《わ》|喧《げん》|嘩《か》……?」 「すごすぎ……」  わくわくわくっ……と高まる期待を胸に、二人はドアのなくなった室内を|覗《のぞ》きこむ。      *    *  白衣の足が、ピタリと止まった。時田は、何事か決意したように、智の座っているダブルベッドのほうへつかつかと歩みよっていく。 「|幼《おさな》なじみだよ……緋奈子と君とわたしは。長いつきあいだ」 「幼なじみ……?」 「そう。緋奈子とわたしが|従兄妹《い と こ》だ。君は、八歳でご両親の|亡《な》くなったあと、しばらく時田|宗《そう》|家《け》に預けられた。ご両親の死には|呪《じゅ》|殺《さつ》の疑いがあったので、わが時田一門も、君をほうっておくわけにはいかなかった。君に強い|霊力《れいりょく》のあることは、その頃からわかっていたからな。……そこで君と緋奈子はめぐりあった。君たちは、互いに|惹《ひ》かれあった。ままごとのような恋人同士だった。わたしは、君と緋奈子をずっと見てきた」  時田は熱に浮かされたような|瞳《ひとみ》で、グイとベッドに|片《かた》|膝《ひざ》をのせ、体重を前に移動させてくる。  こいつの辞書に『理性』の文字があるかどうかは疑問だ。  智は、全身を硬くしたまま、そろそろと身をひく。 「そう|怯《おび》えるな。|嫌《いや》がる君を、むりやり|犯《おか》そうと思っているわけではない」 「怯えてなんかいません」 「そうか?」  時田は、|獲《え》|物《もの》を|狙《ねら》う|肉食獣《にくしょくじゅう》のような目つきでじっと智を見つめ、さらに身を乗りだしてきた。男の肩のあたりに、張りつめた緊張がある。 「選びたまえ、鷹塔智」 「何を……ですか」 「その|感《かん》|応《のう》能力で、果てしなく他人の苦痛を|我《わ》が身に味わいつづける|修《しゅ》|羅《ら》の人生と、わたしのものになって感応能力を捨て、何不自由なく安楽に暮らす人生と。二つに一つだ」  時田の|瞳《ひとみ》が、|誘《さそ》いこむように優しくなる。 「君の|感《かん》|応《のう》能力を消せるのは、世界じゅうにこのわたし一人だけだ。君が、|怨霊《おんりょう》の苦痛にのたうちまわっている時、わたしだけが、その苦痛をとり去ることができる。緋奈子は、君の苦痛を|鎮《しず》められない。ほかの誰にもできないことだ。これは、天の定めた運命というものではないかね。……君にはわたしが必要だし、わたしも君を必要としている」  |憤《ふん》|然《ぜん》として割って入ろうとした|蓮《はす》|川《かわ》が、|吉《よし》|野《の》に取り押さえられた。吉野は、笑いを含んだ水色の瞳で、ドアのあたりを指し示す。 「あっちのほうが問題だと思うぜ」  蓮川が、|覗《のぞ》き見している女子高校生二人につかつかと歩みより、声を荒らげて追い払う。 「見せ物じゃないんです。さっさとお帰りなさい」  女の子二人の不満げな声があがる。  一方、智と時田のほうは——。 「オレは、あんたなんか必要じゃない」  智は、ドアのあたりの騒ぎに気づいて、少し|焦《あせ》った。同じクラスに、似たような女の子たちがいたような気がする。  時田は、|強情《ごうじょう》だなというふうに、余裕の|笑《え》みを|片《かた》|頬《ほお》に|漂《ただよ》わせる。こちらは、覗かれても、まったく気にもとめていない。 「前々から思っていたことだが、君には|陰陽師《おんみょうじ》はむいていないな。心が|脆《もろ》すぎる。他人の苦痛を受け入れつづければ、その心は、いずれ|砕《くだ》けるぞ。この世界には不適格だ。悪いことは言わん。君は、普通の高校生に戻り、受験勉強でもして、社会に有益な大人になりたまえ。そのほうがずっといい」  |甘《かん》|言《げん》でおちないとみると、今度は揺さぶりをかけてくる。かなり|姑《こ》|息《そく》だ。いわゆる大人のやり口というやつか。 「いずれ|記《き》|憶《おく》が戻るのを期待しているようだが、そんなものは百年待っても無理だぞ。君自身が戦いを避けて、|忘却《ぼうきゃく》を望んだのだ。今も、無意識のうちに、記憶が戻るのを|抑《おさ》えつけている」 「記憶が戻るのを抑えつけてる? そんなわけない! オレは記憶がなくてこんなに|怖《こわ》くて、不安で……!」 「記憶が戻れば、緋奈子と戦うしかないぞ。どちらかが死ぬまで、半永久的に」  時田の瞳が急に真剣になる。|虚飾《きょしょく》のない|生《なま》の感情が、言葉の端からあふれだす。 「それでもいいのか、智」  時田は、本気だ。  短い沈黙があった。智はベッドから|床《ゆか》に|滑《すべ》りおり、時田のハシバミ色の瞳を|睨《にら》みつけた。 「オレは……その緋奈子って人のことを知りません。覚えてないんです。名前だけだ。……それに、その人が、オレにとってどんなに大事な人だったとしても」  |陰陽師《おんみょうじ》の|唇《くちびる》が|凄《せい》|絶《ぜつ》な|笑《え》みを形づくる。 「この胸に呼びかけてくる心があるかぎり、オレはそれを見過ごすことはできない。あんたがこの|感《かん》|応《のう》能力を消してくれて、それで永遠に楽になるのだとしても……オレはそんなものいらない」 「智……!」 「|妥協《だきょう》して、ぬるま湯につかって生きるくらいなら、さんざん苦しんで、血まみれになって死んだほうがいい」  たぶん、時田の申し出は、彼なりの精いっぱいの優しさの表現だったのだろう。  彼なりに考えて、出した結論。  |愛《いと》しいものを、これ以上、傷つけずにすむ方法は、これしかないと信じて。  手ひどい言葉で|拒《きょ》|絶《ぜつ》された時田は、一瞬、|怒《いか》りに震えたようだった。 「それが君の答えか」 「オレの誇りは誰にも渡しません」 「君のような子供の誇りに価値などあるものか。そんなものは、誰も欲しがりやしない」  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》の目のなかで複雑な感情が揺れた。唇がわずかに|歪《ゆが》む。  やがて、彼は静かに|呟《つぶや》いた。 「君はバカだぞ」 「時田……さん?」 「望みどおり、さんざん苦しんで死ぬんだな」  時田は、ドアのあたりへ歩みより、冷ややかな目で|桃《もも》|子《こ》と|里《り》|香《か》を|睨《にら》み|据《す》えた。  キャーッと叫んで逃げだす女子高校生二人組。  やれやれとばかりに時田の横をすりぬけて出ていく智。数歩、歩きだした時、その背に、時田が呼びかけた。 「智、これを……」  ふりかえると、心霊治療師は、白衣のポケットから取り出した、十五センチほどの金属片を智にむかって差し出している。  昨日今日作られたものでないのは、金属の古さから一目でわかった。数十年か、ひょっとすると数百年たっている。 「持っていきたまえ」 「なんです、これは」 「君から預かった。君は、緋奈子と戦う直前に、緋奈子に奪われるくらいならと、これをわたしに託した。……あの時、君はわたしを信頼すると言った。覚えていないだろうが」  ハシバミ色の|瞳《ひとみ》が、再び|真《しん》|摯《し》な表情を浮かべるのを、智は見た。 「時田さん……?」 「|記《き》|憶《おく》を失う前日、君は、時田一門の管理する|封《ふう》じられた|邪《じゃ》|神《しん》の|社《やしろ》に行ったのだ。そこで、緋奈子の|秘《ひ》|密《みつ》を知った。君が緋奈子と戦うしかないのは、そのせいだ。事実、社から戻った君は緋奈子に戦いを|挑《いど》んだ。幸か不幸か、失敗したがね。記憶を失う程度ですんだのは、緋奈子が手加減してくれたおかげだ。彼女なりに、|情《なさ》けをかけてくれたのだ。だが、二度目にしくじれば、今度は記憶だけではすまないぞ」 「なんで、オレにこんなもの渡すんです」 「君の信頼にこたえたいと思ってね」  智は、時田の目に|促《うなが》され、さしだされたものを|嫌《いや》|々《いや》ながら受け取る。べつにどうということもない金属の棒だ。 「君がそれを使いこなせるかどうかは保証せん。あとは、君の運しだいだな」  時田は、疲れたような|口調《くちょう》で|呟《つぶや》く。 「君がわたしのものであるうちに……壊してしまえばよかった。その命もくれると言ったのに。素直にもらっておくべきだった」  智は、時田の言葉が終わるのも待たず、走りだした。エレベーターホールへむかう。  受け入れられない心を押しつけられるのは、つらい。  見たくなかった。あんな時田は。  彼にも心があるのだと、知らされたくなかった。 「あ……待てえ!」 「お待ちなさい!」  後ろから、追いかけてくる三人の男たちの|気《け》|配《はい》があった。      *    * 「|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》ですね」  |蓮《はす》|川《かわ》が、智の手のなかの金属片を見て、したり顔で|呟《つぶや》く。  |高《たか》|田《だの》|馬《ば》|場《ば》へむかうタクシーのなかである。|吉《よし》|野《の》と大男——|氷《ひ》|上《かみ》は、一台のタクシーに同乗するには体格がよすぎるので、別のタクシーで後ろから追ってくる。 「あめのおはばり?」 「|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》です。神や|魔《ま》を|斬《き》る剣。……イザナギが|古《いにしえ》の|邪《じゃ》|神《しん》・|火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》を斬り殺した剣とも伝えられています」  蓮川は、|皮《ひ》|肉《にく》めいた|瞳《ひとみ》を智にむける。 「|陰陽師《おんみょうじ》なら常識ですよ、このくらいの知識はね。もっとも、今のあなたにとっては初耳でしょうが」  智は、蓮川からそっぽをむいて肩をすくめた。ホテルの部屋から出たとたん、|拉《ら》|致《ち》同然にして、外に待たせてあったタクシーに連れこまれてしまった。  京介と麗子が危険だ、と言われたが、どう危険なのかわからない。さっきまで、胸に痛いほど響きつづけていた|牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》の|怨《おん》|念《ねん》は、今は静まりかえっている。  それが、さっき時田に触れられたせいなのかどうか、智にはわからない。 (本当に|感《かん》|応《のう》能力を消してくれたんだろうか……?)  タクシーは、高田馬場駅から|諏訪東《すわひがし》高校方面にむかっての、なだらかな坂を上っていく。  前方の空一面に、ザワザワと枝を揺らして|血花桜《ちのはなざくら》が咲いているのが見えた。  運転手には、この桜は見えないらしく、駅前の立ち食い|蕎麦《そ ば》がおいしいという話をする声の調子に変化はない。  車から降りると、湿った風が|頬《ほお》をなでた。歩みよってくる吉野の|金《きん》|髪《ぱつ》が、見事に午後の日を反射してキラキラと輝いている。  智は、横目で蓮川を|睨《にら》んだ。 「ナルミさんと百瀬さんは……無事なんですか。それに、あの桜は……」 「じきにわかりますよ」  蓮川の言葉には、皮肉っぽい|刺《とげ》がある。  信用していいものかと、智は迷う。三人は、さりげなく周囲を囲むようにして、智の逃げ道をふさいでいる。  身のこなしや、目の光にも、それぞれ戦いに慣れた者の余裕のようなものが感じられた。      *    *  ヒイ、ハアと|喉《のど》が鳴る。  新聞配達で体を|鍛《きた》えているとはいえ、二十匹以上の|羅刹衆《らせつしゅう》と戦って|血《けつ》|路《ろ》をひらいた後では、さすがに疲れた。  日曜日の校舎に入りこんでから、三十分以上たったろうか。  京介と麗子は、牧村冴子の|気《け》|配《はい》のする|屋上《おくじょう》へむかって、階段を駆けあがっている。 「れ……麗子さーん……職員用のエレベーターにしようよ。さっき見たら、動いてたぜ」  京介が肩で息をしているのに、麗子は、羅刹衆から奪いとった|槍《やり》をしょって、平然と八センチヒールで走りつづける。|耐久力《たいきゅうりょく》が人間じゃない。  それでも、二人で立ち止まると、麗子も息を荒らげているのがわかった。  その時、|犬《いぬ》|神《がみ》が警告するようにチィチィ鳴きはじめた。背後から人の気配。 「誰っ!?」  叫ぶより速く、麗子の槍が|一《いっ》|閃《せん》する。 「はぁっ! |真《しん》|剣《けん》|白《しら》|刃《は》|取《ど》りっ!」  お|茶《ちゃ》|目《め》な|真《ま》|似《ね》をしながら現れたのは、|紅葉《も み じ》である。  |式《しき》|神《がみ》は、麗子の槍を片手でつかんでいる。もう一方の手には、自分の|召喚用《しょうかんよう》のディスクの入った黒いCDラジカセを、しっかりと握っていた。 「なんだ……紅葉じゃない。|脅《おど》かさないでよ」 「さっきまでいたくせに、どこへ行ってたんだよ。心配したろうが」 「オレを守ってくれてたんですよ」  涼しい声が、紅葉の後ろからささやく。麗子の表情がパッと明るくなった。 「智!」 「鷹塔……」  無事だったか、と尋ねると、智は京介の姿にホッとしたような顔で小さくうなずく。  彼をここへ送り届けた三人は、紅葉が現れると、ほかにも用があるといって、姿を消した。|胡《う》|散《さん》|臭《くさ》いとは思うが、止める理由はなかった。 「いったい……何があったんです?」  智は、不安げに京介と麗子を見つめた。 「この騒ぎ……」 「牧村さんが、病院から連れ去られたの。たぶん、あの|血花桜《ちのはなざくら》の|培《ばい》|養《よう》|体《たい》にされたんだと思う」 「|培《ばい》|養《よう》|体《たい》……? 死んだんですか」 「それは、あなたのほうがわかるんじゃないの、智。あたしなんかより」 「牧村さんだけが|怨霊《おんりょう》になれば、わかりますけどね」  智は、|嘘《うそ》のように苦痛の消えたコットンシャツの胸もとをそっとつかんだ。  痛みの消えたぶん、ほかの感覚が|鋭《えい》|敏《びん》になったような気がする。  |視《み》えるはずのない人の|気《け》|配《はい》や、|地《ち》|霊《れい》|気《き》の流れまで視える。 「でも……こう|邪《じゃ》|霊《れい》が集まってウヨウヨしてるんじゃ、オレだって……」  智は、宙に目を|据《す》え、精神統一しているようだった。やがて、|唇《くちびる》が動く。 「どうやら、牧村さんの気配……|屋上《おくじょう》ですね」 「俺、もう階段はパス。エレベーターのほうが、絶対いいってば。この先、バトルかもしんないんだからさ、体力は|温《おん》|存《ぞん》しとかなきゃ」  京介は、わざと明るい|口調《くちょう》で言った。沈みこむ智の気持ちを引きたてようとしている。  智は手をのばして、京介の腕をつかんだ。  相手の耳もとに口を近づけて、ささやく。 「ナルミさん、老化は足腰から始まるそうですよ。たったこれだけの階段で疲れてるようじゃ、高校生の体とはいえないんじゃないですか」 「けっ。そんなもんで|挑発《ちょうはつ》して上らせようったって、そうはイカの|塩《しお》|辛《から》だぜー」 「挑発してるわけじゃないですよ。単に、ナルミさんはけっこう体力がなくって、見た目よりオヤジだなって思っただけですから」 「ふんぬぅーっ! |貴《き》|様《さま》、やっぱり挑発してるんじゃねーかっ!」 「何、怒ってるんです? あんた、変ですよ」  智は、|殴《なぐ》りかかる京介の|拳《こぶし》を手のひらで受けとめ、|陰《いん》|険《けん》な|笑《え》みを浮かべる。 「|怖《こわ》いんですか」 「バーカ。おまえこそ、途中でぶっ倒れるんじゃねえぞ」  京介は、パンと智の両手を殴りつける。智は、こんな時だというのに、ものすごく楽しそうに見えた。  そういえば、こういうふうに会話するのは初めてだなと、京介はぼんやりと思う。  普通の高校生同士の会話。 (最初から、こういうふうに出会えればよかったのに) 「鷹塔……」  その時、麗子がヒッと息をのんだ。  |鈍《にぶ》く光る|槍《やり》が、智の|頬《ほお》をかすめて、後ろの壁に突き刺さった。 「う……わっ!」  思わず悲鳴をあげたのは、京介のほうだった。智は、まっすぐ前を|睨《にら》みつけたまま、|微《び》|動《どう》だにしない。|気《き》|迫《はく》が違う。 「紅葉、切りなさい」  |陰陽師《おんみょうじ》が|鋭《するど》い声で|命《めい》じる。  |獣面人身《じゅうめんじんしん》の|羅刹衆《らせつしゅう》が、階段の上のほうから、襲いかかってきた。手に手に|槍《やり》や|鎌《かま》を持っている。  |狼《おおかみ》の顔、|狐《きつね》の顔、牛の顔、|虎《とら》の顔。まるで動物園からぬけ出てきたようだ。  首から上は動物なのに、体は普通の人間だ。Tシャツやスーツを着ているのが、ものすごく違和感を感じさせる。  智の声を聞いたとたん、|式《しき》|神《がみ》の両手の|爪《つめ》がジャッと音をたてて、一メートルも伸びた。 「がってん|承知《しょうち》の|助《すけ》よ!」  軽い言葉の調子とは裏腹に、紅葉の|瞳《ひとみ》はギラギラと|凶暴《きょうぼう》に輝きはじめる。  麗子が、素早くスーツのポケットから|紅水晶《ローズクオーツ》の|勾《まが》|玉《たま》を取りだす。 「|召邪封印退魔法《しょうじゃふういんたいまほう》!」  勾玉が、麗子の手のなかでクルクルまわりだした。ショッキングピンクの光が、階段を上から下まで照らしだす。 「|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》ーっ!」  紅葉も、一メートルもある|鉤《かぎ》|爪《づめ》で、羅刹衆に切りかかる。獣面人身の化け物をざっくりと切り|裂《さ》くと、傷口から青緑の光が水のように流れ出た。その光がぬけると化け物どもは、死んだように動かなくなる。 「ウワアアアアアアーッ!」 「|退《しりぞ》くな! 敵は少人数だ!」 「|魔鬼幽魂招来《まきゆうこんしょうらい》!」  あっという|間《ま》に、足場の悪い階段の途中で|戦《せん》|闘《とう》がはじまった。  ふいに、智が突き出された槍をかわしそこねて、小さくうめく。 「ぐ……っ……!」  その|脇《わき》|腹《ばら》から、|鮮《せん》|血《けつ》の輪が広がっていく。 「鷹塔っ! あぶないっ!」  京介は、襲いかかる獣面人身の化け物を槍で|殴《なぐ》りつけ、智にむかって走った。 「鷹塔ーっ!!」 「う……っ!」  よろめいて頭から落ちていく智に手をのばす。  一瞬、|凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が|怯《おび》えたように京介を見、反射的に手がさしのべられる。  ガシッと二つの手がつながった。次の瞬間、京介も智に引きずられるようにして、体ごと宙に舞う。 「ぐわっ! ああああああーっ! 落ちるぅーっ!」 「ナルミさんっ!」  もうダメだ。京介は|迫《せま》る死の影を見まいと、目を閉じた。  |走《そう》|馬《ま》|灯《とう》のように、過去から現在までのできごとが頭のなかを流れていく。  ああ、本当にこういうことってあるんだな、と思ったのを最後に、京介の意識はブラックアウトした。 「|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》ーっ! |退《たい》|魔《ま》|円《えん》|舞《ぶ》!」  どこかで、紅葉が叫んでいる。  意識を失っていたのは数秒のことだったらしい。京介は、恐る恐る目を開けた。  気がつくと、智の腕がしっかりと京介の背にまわされていた。  転落の瞬間、片手で階段の手すりにつかまり、片手で京介をつかまえた、といった格好だ。 「あ……鷹塔……」 「無事ですか。……女の子みたいに、いちいち気絶しないでくださいね」  |嫌《いや》|味《み》を言う智の目は、けっこう本気だ。みっともないところを見られてしまった。 「ごめん……悪い……」  京介は、ドッと|自《じ》|己《こ》|嫌《けん》|悪《お》の泥沼にはまってしまう。助けるかわりに、助けられて、そのうえ|情《なさ》けなくも気絶してしまった。こんなはずではなかった。  全身が緊張していて、息をするたび、背中がミシミシいう。 「あんた……バカですよ」  智が、京介の背にまわした手をゆるめる。少し離れると、白いコットンシャツが、ゾッとするほど広い範囲で赤く|染《そ》まっているのが見えた。 「鷹塔、なんで俺なんか助けるんだよ。|怪《け》|我《が》してんのに……」 「そう痛くはないんです」  事もなげに言う智の|口調《くちょう》に、よけい落ち込みが加速する。バカはどっちだ。少なくとも、俺を助けるような|真《ま》|似《ね》をしなけりゃ、その傷口もそんなに開かなかったはずなのに。 「おまえ、|痛《つう》|覚《かく》|鈍《にぶ》いんじゃない?」  |憎《にく》まれ口をたたきながら、そっと智の肩に腕をまわし、傷ついた体をささえる。 「ステゴザウルスなみの鈍さじゃん。ステゴザウルスってさ、脳があんまり小さいもんで、|尻尾《し っ ぽ》踏まれてから五分たって、ようやくわかるんだってな」 「オレは|恐竜《きょうりゅう》なみですか」  智は、ほうっと息を吐いて、京介に全身の体重をかけてきた。心やすい信頼の|仕《し》|草《ぐさ》。  一本の腕ではささえきれない。|慌《あわ》てて、両腕で抱きしめる。 「|大丈夫《だいじょうぶ》か、鷹塔」 「あんたが死ぬかと思った……」 「死にそうなのは、そっちだろ」  こんな時だというのに、京介は智に触れて子供みたいに安心している。  ふいに、智の腰にまわした手が、ホワイトジーンズとは別の異質な物体に触れる。  |触《さわ》った感じでは、金属だ。 「ん……?」  勝手に智のポケットから引きぬいてみると、十五センチほどの金属の棒だ。かなり古いものだろう。黒っぽくなって、|錆《さび》のようなものがところどころに浮いている。 「大丈夫、智? 京介君?」  上のほうから、麗子の声がふってくる。 「生きてるんでしょ、二人とも?」 「大丈夫です。戦えます」  智が京介より先に返事を返す。智の|怪《け》|我《が》がだいぶひどい、と言おうとした京介は、言葉を|封《ふう》じられるかたちになった。  |凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が、京介の視線をとらえる。 「心配させても仕方ないです」 「そうだけど……」  目の|隅《すみ》に、紅葉が階段の手すりをこえて、ふわっと宙に飛びあがるのが見えた。 「おいらのマスターを傷つけた|不《ふ》|埒《らち》な|羅刹衆《らせつしゅう》どもぉ! 天に代わって|成《せい》|敗《ばい》いたーすっ! いざ|尋常《じんじょう》に勝負ーっ!」  |式《しき》|神《がみ》は、よくわからない|見《み》|得《え》をきって、攻撃に転じる。  態度はおちゃらけていて、一見ただの軽い兄ちゃんだが、戦闘能力は高い。  襲いかかる羅刹衆を|嘲《あざ》|笑《わら》うように、軽々と宙を飛びこえ、|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》を|一《いっ》|閃《せん》する。  ずしゅうっ!  短い沈黙があった。何があったのかわからないように顔を見あわせる羅刹衆ども。  次の瞬間。  紅葉の周囲の羅刹衆が、ゆっくりと|床《ゆか》に倒れこむ。|獣面人身《じゅうめんじんしん》の体の傷口から、青緑の光が水のように吹きだす。  光がぬけると、羅刹衆どもは死んだように動かなくなった。  魔斬爪を胸の前で交差させたまま、式神は軽々と床に降りたつ。  |酷《こく》|薄《はく》な|瞳《ひとみ》の色。  次の瞬間、紅葉は|相《そう》|好《ごう》を|崩《くず》して、京介にVサインしてみせる。 「決まったじゃーん。おいら、かっこいーいっ!」 「すげ……」  紅葉は、勝利の踊りーなどとはしゃぎながら、手を打って踊りはじめた。とにかく、緊張感が|欠《けつ》|落《らく》している。このへんが、|式《しき》|神《がみ》と人間との違いなのかもしれない。  半分|呆《あき》れて紅葉を|眺《なが》めていた京介の背後から、|新《あら》|手《て》の|羅刹衆《らせつしゅう》が駆けあがってくる。 「|怯《ひる》むなぁー! 行けぇーっ!」 「相手は丸腰だぞ!」  ギラリと|鈍《にぶ》く光る|槍《やり》をふりかざした敵が、もうすぐそこまで来ている。 「や、やめろっ! こんなのってありかっ!?」 「京介君っ! 逃げて!」  叫びざま、麗子が|呪《じゅ》|符《ふ》を投げるが、タイミングが悪くて|間《ま》に合わない。 「あぶないーっ!」 「|旦《だん》|那《な》っ!」  紅葉がパッと姿を消して、いきなり京介と智の背後に出現する。そのまま、式神は|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》で応戦しはじめた。  だが、|多《た》|勢《ぜい》に|無《ぶ》|勢《ぜい》だ。紅葉にも防ぎきれない。 「そこだ!」  叫び声が聞こえたかと思うと、京介は踊り場に押し倒されていた。  ムッとするような|獣《けもの》の|臭《にお》い。  京介は、敵を見た。|豹《ひょう》の顔だ。緑の目がギラギラ光っている。恐怖より、驚きのほうが大きかった。 「何……|嘘《うそ》だろ」  ハァハァ……と獣臭い息が顔に吹きつけられる。まぢかで光る真っ白な|牙《きば》。 「ナルミさんっ!」  悲鳴のような智の声。続いて、京介の全身に|衝撃《しょうげき》が走る。羅刹衆が吹っ飛んだ。  智が全身で体当たりをかけたのだ。 「う……わっ……!」  階段から転がり落ちかけた京介は、|焦《あせ》って手すりにしがみついた。  |記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の|陰陽師《おんみょうじ》は、素手で、羅刹衆の前に立ちふさがる。 「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ……」  |印《いん》を結ぶ両手。|跳《は》ねおきた羅刹衆が、|怒《いか》りに|唸《うな》りながら、今度は智にむかって襲いかかっていく。その手には、いつの間に拾ったのか|鋭《するど》い槍がある。  麗子が、智を守ろうと駆けおりてくる。その背後に、別の|羅刹衆《らせつしゅう》の群れ。  すでに、乱戦状態だ。麗子が階段の途中で応戦する。 「紅葉、ナルミさんを」  |陰陽師《おんみょうじ》の命令で、|式《しき》|神《がみ》が京介を守ろうと移動してくる。智の周囲がガラあきになる。羅刹衆が勢いづく。 「鷹塔、やめろ! 自分を守れ! バカ!」  叫んだ|刹《せつ》|那《な》、京介の腰のあたりに、奇妙な熱が生まれた。  ズキズキと|疼《うず》くような熱さは、背中から肩へむかって、どんどん広がっていく。  頭がクラクラして、酔ったように世界がまわる。  上半身に広がった熱の|塊《かたまり》は、肩から腕を伝って、手のなかの金属片に吸いこまれていく。 「う……っ……!」  ズキーン!  百万本もの焼けた針でつらぬかれたような激痛が、一瞬、京介の身内を駆けめぐる。  同時に、純白の光の|刃《やいば》が出現した。  |刃《は》|渡《わた》りは二メートルほど。  日本刀のように片刃ではなく両刃。  |柄《つか》の先端は、|猛《たけ》|々《だけ》しい|鷹《たか》の頭を|象《かたど》っている。  |古《こ》|墳《ふん》から出土する古代の|剣《つるぎ》を連想させる。 「なんだ……なんなんだ……ちょっと……」  体が、勝手に動く。  刃の光に導かれるように、京介は、智の前に走りこみ、今しも少年の胸をつらぬこうとしていた|槍《やり》の|穂《ほ》|先《さき》を|断《た》ち落とした。  次の瞬間、軽く体が反転し、次の羅刹衆を迎えうっている。 「なんだ! なんだ! うわーっ!」  時代劇の主役になった気分だ。|小《こ》|気《き》|味《み》いいくらい、敵はバッタバッタと倒れていく。 「ナルミさん……どうして……」  智が、|片《かた》|膝《ひざ》をついて、|茫《ぼう》|然《ぜん》と|呟《つぶや》く。両手は、まだ|印《いん》を結んだままだ。  麗子が、純白の光に驚いて京介のほうを見た。 「|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》……」  |犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いの表情が微妙に変化する。驚きから|安《あん》|堵《ど》へ、そして|疑《ぎ》|惑《わく》へ。 「|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》が|顕《けん》|現《げん》した……。これは天意なの、それとも……?」  犬神使いは、注意深い視線を京介に注ぎ、尋ねるように智を見る。 (智、知っていたの? 鳴海京介が天之尾羽張の|主《ぬし》だって。鳴海京介が仲間になったのは、偶然じゃなかったの? あなたは、ここまで計算して……彼の前に現れたの?)  その問いに答えるべき|傲《ごう》|慢《まん》な|瞳《ひとみ》の|陰陽師《おんみょうじ》は、今、ここにはいない。  麗子は、迷いをふりはらうように、真正面の|羅刹衆《らせつしゅう》を|睨《にら》みつけた。 「かかってらっしゃい」  羅刹衆どもの目つきが|狂暴《きょうぼう》になって、|気《け》|配《はい》が殺気だってくる。連中には、|怯《おび》えやためらいといった感情はない。|完《かん》|璧《ぺき》に|欠《けつ》|落《らく》している。  |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の出現は、敵を本気にさせたぶん、|薮《やぶ》|蛇《へび》だったかもしれない。  後から後から|湧《わ》いてくる羅刹衆と戦いながら、京介は絶望的な気分になってきた。 「どうしよう……」 「ナルミさんっ! |屋上《おくじょう》へ!」  |凜《りん》とした智の叫びが、その場の空気の流れを支配した。 「まだ終わってない! 自分から、終わったと思い決めてしまわないかぎり、道はまだ続いています! あきらめないで!」  麗子が、智の声に、素早く|勾《まが》|玉《たま》を頭上に|掲《かか》げる。  ショッキングピンクの光が周囲を圧して輝きはじめる。 「行くわよ! 最後のがんばり見せてね、二人とも!」 「おうっ!」  京介は、もう何も考えずに、純白の光の剣をかまえ、立ちふさがる羅刹衆にむかって突っこんでいった。  やればできる。これは確信だった。  智が一緒にいてくれるかぎり、絶対に負けない。  智は、階段を駆けあがりながら、一度、京介の手のなかの天之尾羽張を|眺《なが》めた。  |皮《ひ》|肉《にく》めいた|笑《え》みが、|記《き》|憶《おく》|喪《そう》|失《しつ》の陰陽師の|唇《くちびる》に浮かぶ。 「なるほど、こういう意味か……。でも、感謝はしませんよ、時田|忠《ただ》|弘《ひろ》」     第九章 |地《ち》|霊《れい》|気《き》の|宝《ほう》|珠《しゅ》  そして、|智《さとる》たちは、|屋上《おくじょう》にたどりついた。  ジリジリと照りつける初夏の日差しは、|桜《さくら》の濃い影を落とす。  眼下には、|隣《りん》|接《せつ》する|戸《と》|山《やま》公園の緑が|鮮《あざ》やかだった。  頭上を見あげれば、季節はずれの|爛《らん》|漫《まん》の桜が、あやしく風に揺れている。 「|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》……ですね」  長い髪の少女が、静かにふりむく。  |能《のう》|面《めん》を思わせるのっぺりした顔。  赤系のタータンチェックのスカートに、白いブラウスを着ている。  緋奈子は、笑っているようだった。  彼女の後ろのコンクリート壁には、腰のあたりまで|触手《しょくしゅ》に同化した|無《む》|惨《ざん》な死体。  |牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》のなれの果てだ。  冴子のパジャマの心臓のあたりが不自然に盛りあがっている。大きな|瘤《こぶ》のようだ。死んだ肉体の上で、瘤だけがまったく別の生きもののようにドクドクと脈動していた。 「ひどい……」  |麗《れい》|子《こ》が、口を押さえて|呟《つぶや》いた。|京介《きょうすけ》も必死に、こみあげる|吐《は》き|気《け》を|呑《の》み下す。  まさか、死んでいるとは想像もしなかった。 「|血花桜《ちのはなざくら》を咲かせ、罪もない牧村さんを殺した罪、つぐなっていただきます」  智が、一歩前に出る。  |凜《りん》とした|美《び》|貌《ぼう》は、苦痛に青ざめている。  その右に|魔《ま》|斬《ざん》|爪《そう》をむきだしにした|紅葉《も み じ》が、左に|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の純白の|刃《やいば》を|正《せい》|眼《がん》にかまえた京介が、それぞれ従う。  麗子は、二人と|式《しき》|神《がみ》の背後を守るように、ショッキングピンクに輝く|勾《まが》|玉《たま》を|掲《かか》げて立っている。 「よくここまで来たわね、智ちゃん。その傷で戦えるの?」  智の|脇《わき》|腹《ばら》の出血はまだ続いていた。  ホワイトジーンズの腰のあたりが、真っ赤に|染《そ》まっている。  智は、|嘲《あざけ》るような緋奈子の視線を真正面から受けとめた。  その全身から、青い|霊《れい》|光《こう》が輝きはじめた。 「天と地と……見えるもの、見えざるものすべてになり代わり、あなたを|誅伐《ちゅうばつ》します」  緋奈子は、|疵《きず》のない|透《す》きとおった声で笑いだした。  彼女の両側には、|北《ほく》|斗《と》と|九《く》|曜《よう》の二人が、それぞれ白い|鞭《むち》と、|湾曲《わんきょく》した両刃の剣を持って控えている。  緋奈子の周囲の空気が、小さく揺れた。  微小な光の|粒子《りゅうし》が大気に混じったように、半径二メートルほどの空間がキラキラと輝きはじめた。 「なん……だ……」 「|記《き》|憶《おく》を|封《ふう》|印《いん》しても、やっぱり来るのよね、智ちゃんは。そういう子だわ。わかってた」 「知り合いか、|鷹《たか》|塔《とう》、この女」 「|幼《おさな》なじみだそうですよ。……覚えてなくて幸いですがね」  智は、苦しげに|呟《つぶや》く。  京介は、智に同情してしまった。  こんなに、思いこみが激しくて、|陰《いん》|険《けん》で、そのうえ頭がよさそうな女が幼なじみというのは、こりゃ、そうとう女性観が|歪《ゆが》むパターンだ。  それでも相手が美人だったら、まだ救いがあるのに、|能《のう》|面《めん》のようなのっぺりとした顔は、美とか愛らしさという言葉を受けつけない。  二人ならべば、智のほうがよっぽど目の保養だ。  きっと、自分より美しいものが許せない|怖《こわ》い女に、小さい頃からずっといじめられてきたんだろう。智の性格の歪みの原因を見たような気がする。 「|血花桜《ちのはなざくら》が咲いたわ。東京の|地《ち》|霊《れい》|気《き》が、この子の心臓に集まってきてる。もうここに用はないの。悪いけど、智ちゃんの相手をする|暇《ひま》はないから」  緋奈子は、冴子の心臓の上の|瘤《こぶ》に、むんずと指を突きたて、ズブズブと手首まで差しこむ。  ぐじゅっ……と、五本の指が、瘤のなかにあった|桃《もも》くらいの大きさと色あいの|宝《ほう》|珠《しゅ》をつかんで、ゆっくりと引きぬく。  外気に触れると、宝珠は、|綺《き》|麗《れい》なピンク色に変わって、|淡《あわ》く光りはじめた。  宝珠の光に照らしだされた緋奈子の顔が、|恍《こう》|惚《こつ》となる。 「地霊気、おいしそう……」  緋奈子は、ピンクの宝珠を|唇《くちびる》でなぞり、うっとりと目を閉じた。  そのまま、宝珠に歯をたて、地霊気を吸いこもうとする。 「許さない! 緋奈子!」  智が|鋭《するど》い声で叫び、手をあげた。素早く|九《く》|字《じ》を切ろうとする。 「ムダよ、智ちゃん!」 「はっ……う……っ!」  智の手首に、どこからともなく現れたルビーレッドの|炎《ほのお》の|鞭《むち》がからみついた。  バチバチッ……と火花が飛ぶ。 「くぅ……うっ……!」 「あ……水! 消火器!」  京介は、反射的に|屋《おく》|内《ない》へ駆けこもうとした。その背中に麗子が叫ぶ。 「行かないで。戦力を分散するのは危険だわ」 「でも、麗子さん!」 「|大丈夫《だいじょうぶ》……です。そばにいてください」  顔を|歪《ゆが》め、コンクリートの|床《ゆか》に|片《かた》|膝《ひざ》をつく智の姿。炎の鞭は、数秒で消えたが、智の手首には|縄《なわ》|目《め》のような赤い|火傷《や け ど》の|痕《あと》が残った。  京介は、黙って智の前に立ち、彼をかばうように|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》をかまえた。  考える必要もなく、体が勝手に反応する。  ダイヤモンド・ダストのような光が舞う空間のなかで、緋奈子が声をあげて笑っている。  その|嘲《あざけ》るような声の調子に、京介の神経がプッツリ切れる。|怖《こわ》いとか、あぶないという意識がどこかに飛んだ。 「いつまでも笑ってられると思うなぁーっ!」  京介は、緋奈子にむかって走りだした。宙を切る純白の光の|刃《やいば》。 「ダメ! |京介君《きょうすけくん》!」 「はぁあああああーっ!」  カッと視界が、赤い光に|覆《おお》われる。  京介は、小さくうめいた。  あの空間に入ろうとしたとたん、思いっきり|弾《はじ》き飛ばされた。  体全体に無数の|細《こま》かい切り傷が走り、ひどく|消耗《しょうもう》している。 「どう……?」  麗子が、そっと京介の|傍《かたわ》らに|跪《ひざまず》く。 「あの空間には、|霊力《れいりょく》の強い人間しか入れないの。|血花桜《ちのはなざくら》が、大地の霊気を吸収するのと一緒に、空間の内側にいる人間の霊気も吸収してる。よほど強い力がなければ、入ってすぐに霊気を吸い尽くされて、ただの|脱《ぬ》け|殻《がら》みたいになって死ぬわよ」 「見てるしかないって……いうのか……!」 「もうダメだわ……もう……命かけても意味ない」 「やめろよ、麗子さんっ! そんなセリフ聞きたくない!」 「あの空間には、入れないのよ。入ったら、確実に死ぬんだから」 「確実に死ぬ……」  京介は、ブルッと身震いした。たった一瞬、あの空間に触れたこの体の|衰弱《すいじゃく》ぶりを見るだけで、麗子の言葉が|嘘《うそ》ではないと実感できる。 「でも、なかへ行かなければ、緋奈子は倒せませんね」  智が、奇妙に冷静な声で|呟《つぶや》く。 「鷹塔……どうするんだよ、おい。考えがあるんだろうな。一人で……」  京介は、ふらつく体で起きあがった。  智の決意した|瞳《ひとみ》が|嫌《いや》だった。  何もかものみこんで、一人で納得して……。 「あんたらとは一緒には戦えません。やってらんない。……最初っから、負けるつもりになってるじゃないですか。弱気なセリフばっかり吐いて、つきあいきれない」  智は、|嘲《あざけ》るような視線を京介と麗子にむけた。  |傲《ごう》|慢《まん》な|眼《まな》|差《ざ》しは、出会いの時の|陰陽師《おんみょうじ》のもの。 「|言《こと》|霊《だま》|信《しん》|仰《こう》ってあるじゃないですか。口に出したことは実現するって……。オレは、マイナスの言霊ばっかり吐き出す連中とは、一緒にいたくない。自分に負けを引き寄せるような態度、最低ですよ」  バサリとまとめて|斬《き》って捨てるようなセリフが、京介の神経を刺激する。 (そんなにおまえは、一人がいいのか。自分だけ、何もかもわかってるような顔しやがって) 「そこまで言うからには、勝算があるんだろうな」 「そんなもの、ありません」  あっけなく言われてしまった。  智は、負けん気な|瞳《ひとみ》で京介を|睨《にら》みつけて立っている。その様子は、まるで|虚《きょ》|勢《せい》をはる子供のようだ。 「おい……おまえ、言ってることがメチャクチャだぞ。どうしたいんだ、本当は」 「あんたには関係ない!」  京介の言葉に|覆《おお》いかぶせるように、智が叫ぶ。 「オレは……呼ばれてるんだ。行くしかないんです。あんたには、絶対にわからない!」 「なんの話だ。わかるように言え」  智は、つらそうに顔をそむけた。 「わからなくていい。牧村さんの|怨《おん》|念《ねん》なんか……|視《み》えなくていい」  京介の胸にストンと落ちるものがあった。  智がさっきから顔色悪くて、苦しそうだったのは、牧村冴子の怨念のせいか。 (だから、おまえはあんな言い方して……)  京介と麗子を、これ以上巻きこむまいとしたのだ。  京介の胸が、|切《せつ》なく|疼《うず》く。 (おまえ、大人のふりなんかするなよ。欲しいものがあるなら、欲しいと、大声あげて叫べばいい。がまんなんかしなくていいんだ。  本当は、俺についてきてほしいくせに) 「じゃ、オレは行きますけど」  |踵《きびす》をかえして歩き去るコットンシャツの背中。  たった一人で戦おうとする悲しい姿。 「鷹塔、待てよ! 待て!」  それでも、京介は、ためらいもせずに、智のあとを追いかけた。  今度は、輝く大気の壁は、京介を|弾《はじ》きだそうとはしなかった。      *    *  全身の血が逆流するような感覚。  閉じた|目《ま》|蓋《ぶた》の裏が、千もの光の針で突き刺されているように|眩《まぶ》しくて、頭がクラクラする。  胸が悪くなり、意識が薄れはじめた。 「たか……とー……!」  数歩離れて、白いコットンシャツの背中が見える。  この|霊力《れいりょく》を吸いとる空間のなかで、|傲《ごう》|然《ぜん》と頭をもたげ、緋奈子を|睨《にら》み|据《す》えている。 「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン!」  流れるような|光明真言《こうみょうしんごん》。  そして、|嘲《あざけ》るような緋奈子の笑いが智の真言に重なる。 「そんなもので、緋奈子は倒せないわよ、智ちゃん!」  女王然と立つ少女の|両脇《りょうわき》から、九曜と北斗がスススッと智にむかって移動してくる。 「お|覚《かく》|悟《ご》を、智さま」  北斗が、赤毛をかきあげ、|妖《よう》|艶《えん》に微笑した。彼女の手には、|白《しろ》|革《かわ》の|鞭《むち》がある。 「オン・ハンドマ・アボキャジャヤニ・ソロソロ・ソワカ!」  智の頭上に、金色の|錫杖《しゃくじょう》が出現した。智が錫杖に手をのばすと、その|仕《し》|草《ぐさ》に呼びよせられるように、錫杖は|陰陽師《おんみょうじ》の手のなかにおさまった。  |鈍《にぶ》い金属音が鳴り響く。 「お命|頂戴《ちょうだい》しますわ」  九曜が、重低音の声で甘ったるくささやく。  京介は反射的に、こいつ嫌い、と思う。どうせ殺されるにしても、こんなオカマの手にかかるよりは、あっちの色っぽい赤毛の姉ちゃんのほうがいい。 「智さま、参ります!」  北斗の白い鞭が宙を切り、同時に九曜の手もとからも|湾曲《わんきょく》した|刃《やいば》が繰りだされる。  智は、素早く金色の錫杖を横になぎ払った。  キーン!  |弾《はじ》かれる九曜の刃。同時に、青く輝く|霊《れい》|光《こう》が智の全身からほとばしり、今しも彼の|利《き》き|腕《うで》にからみつこうとした北斗の鞭を、ドロリと|溶《と》かす。  |幸《さい》|先《さき》はいい。だが、北斗と九曜のむこうには、まだ無傷の緋奈子がいる。  麗子の叫びが、外のほうから聞こえてきた。 「ダメ! 智! 霊力を集中すればするほど、その空間に力が吸い取られてしまう! もういいから、戻ってきて……! 京介君も……お願い!」  智が、麗子の叫びにギクリとしたように、意識の集中をやめる。青い霊光は、薄れて消えた。  目に見えて、智の体がふらつく。 「鷹塔……!」  京介は、のろのろと走りだした。だが、|消耗《しょうもう》しきった体は、腹がたつほどまったく思いどおりにならない。|膝《ひざ》が笑い、一歩前に出るたびにフラッと転びそうになる。  |悔《くや》しかった。  まるで役にたたないどころか、これでは智の足手まといになるかもしれない。このままでは、二人ともやられてしまう。何か策はないか……何か。  |錫杖《しゃくじょう》を取りなおした智の腕が、重くて持っていられないというふうに、小さく|痙《けい》|攣《れん》する。 「つ……!」 「|霊力《れいりょく》が減ってきたわねえ、|陰陽師《おんみょうじ》。時間がかかればかかるほど、あんたは消耗して苦しくなるし、あたしは楽になるのよねえ」  武器を取りなおした九曜が、|蝶《ちょう》の舞うような動作で智の周囲に|鋭《するど》い|刃《やいば》を|閃《ひらめ》かせる。  京介は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を持ちあげ、九曜にむかって投げつけようとした。  が、手首の力がガクッとぬける。すでに、だいぶ|霊力《れいりょく》を消耗した。刃が重すぎて、持ちあがらない。  |焦《あせ》る京介の目の前で、智が苦しげに胸を押さえて|屈《かが》みこむのが見えた。 「くっ……あ……」 「死んだあの娘の苦痛に|感《かん》|応《のう》した? 優しいわねえ、鷹塔智。その優しさが命とりよ」  ジャラーン……。  智の手から錫杖が落ちた。その背や手足に、|容《よう》|赦《しゃ》なく|湾曲《わんきょく》した刃が降りおろされる。|鮮《あざ》やかな|血煙《ちけむり》が、パッと吹きあがった。 「は……! ぐっ……う……!」 「たか……とー!」  智は、両腕で胸を|抱《かか》えこむようにしてしゃがみこみ、|膝《ひざ》をついた。ささえを求めるように片手をつく。そのまま、コットンシャツの背中が前のめりに倒れこんでいった。  麗子が、この空間の外で鋭い悲鳴をあげる。 「|嫌《いや》ぁーっ! 智っ!」  智の頭上に、九曜が両手で握った刃を|掲《かか》げる。  ズシューッ!  |鮮《せん》|血《けつ》が舞いあがった。  声もなくのけぞる少年の体が、やがて|弛《し》|緩《かん》し、倒れ伏したまま動かなくなる。 「緋奈子……」  血に|濡《ぬ》れた|唇《くちびる》が、小さく動いた。  京介は離れた位置から、|凜《りん》とした|瞳《ひとみ》が永遠に閉ざされるのを見たと思った。      *    * 「鷹塔……こんなの違うよな……違う……」  京介は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を|杖《つえ》にして、必死に智に|這《は》いよろうとした。 (これは夢だ。  最悪の現実。|嘘《うそ》だ。信じない。あってはならない。  おまえが俺をおいていくはずがない。  そんなことは、この俺が許さない) 「鷹塔……」  全身の力がぬけ、足がガクガク震える。もう天之尾羽張を持っていることができない。  指のあいだからすりぬけていく金属の感触。 (まだ、何も話していない。  教えてやっていない。どんなに智を大切に思っていたか) 「さよならね、智ちゃん。愛していたよ……」  遠く、かすかに緋奈子の声が聞こえてくる。  今までこの少女から聞いたこともない、情感のこもった優しい声。  京介は、自分の|霊力《れいりょく》がほとんど残っていないのを知っていた。  このまま、あと一分も横になっていれば、完全に死ねる。もし、それを望むなら、もう抵抗する必要はないのだ。  その時、智の声が|脳《のう》|裏《り》に|甦《よみがえ》った。  ——|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。まだ終わったわけじゃない。チャンスはまだある。オレにはわかります。最悪の状況になんか絶対にならない。かならず逆転できます。  あの日、あの時の、智の|眼《まな》|差《ざ》しの強さを思い出す。  |興《こう》|福《ふく》|寺《じ》の|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》|像《ぞう》を|彷《ほう》|彿《ふつ》とさせる|遥《はる》かな視線。 「バカ……|野《や》|郎《ろう》……!」  思いがけず、涙が|頬《ほお》を伝った。 (おまえは、嘘つきだ。  あんな立派なこと言っておいて、自分だけ勝手に|逝《い》ってしまった。  何がチャンスだ。何が逆転だ) 「嘘つきだ……期待させんな! こんなことなら、最初っから……あんな目するな!」 (おまえの|瞳《ひとみ》が、俺を喜んでこんな状況に飛びこませたのに。  |灯《あかり》に引き寄せられる|蛾《が》のように、おまえが来るなと言えば、よけい追いかけたくなって、おまえが|拒《きょ》|絶《ぜつ》すればするほど、手をさしのべたくなった。  おまえがいたから、こんなバカげたサイキック・バトルに参加して、こんな割のあわないことに体をはって、命をかけた。  それなのに、おまえは勝手に、俺をおいてあっさりと死んでしまった) 「サイテーだ……」  意識が|朦《もう》|朧《ろう》としはじめた。ガクッと|膝《ひざ》が|砕《くだ》ける。  |刹《せつ》|那《な》、四つの姿が、空中からにじみだすようにして、京介の前に出現した。  一人は、|青藍色《せいらんしょく》のタキシードを着た|金《きん》|髪《ぱつ》の青年。  一人は、智とよく似た長い黒髪の少年。  一人は、|縞《しま》の着物を着た大男。  そして、最後の一人は——。 「紅葉……」  四つの姿は、京介と智を背後に守るようにして、緋奈子の前に立ちはだかる。 「われら、|上主《じょうしゅ》智の|命《めい》により、|参上《さんじょう》!」  紅葉は、京介にむかって、パタパタと手をふってみせる。 「やほー! おいらたちがいれば、安心だよっ!」  麗子が、両手を握りしめ、驚きの声をあげた。 「|桜良《さ く ら》、|睡《すい》|蓮《れん》、|吹雪《ふ ぶ き》!! どうして……!? 智は、|咒《じゅ》、|唱《とな》えてないのに……!」  どうやら、この三人は智の式神であったらしい。  金髪の青年が、ぐったりと横たわった智の|傍《かたわ》らに|屈《かが》みこむ。 「お目覚めを、上主」  その声にどんな力があったものか、智の|瞳《ひとみ》が、|奇《き》|跡《せき》のように開いた。 「桜良か」 「上主の時定めの咒によりまして、われら、参上つかまつりました」 「|召喚《しょうかん》の咒にタイマーかけてあったんだよっ、マスター! これで、みんなそろったね」  紅葉が、うれしそうに智の首にしがみつく。睡蓮と呼ばれた|蓮《はす》|川《かわ》が、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうな顔で紅葉の首根っこをつかまえて、|強《ごう》|引《いん》に智から引きはがす。  血まみれの姿が、静かに立ちあがる。  コットンシャツも、ホワイトジーンズも、|鮮《せん》|血《けつ》を吸って赤黒くなっている。  よくこれで動けるものだ。 「鷹塔……」  一瞬、|陰陽師《おんみょうじ》の|凜《りん》とした|怜《れい》|悧《り》な瞳が京介にそそがれた。  形のいい|唇《くちびる》が|笑《え》みを刻む。 「あ……」  不安が、悲しみが、|嘘《うそ》のように消えていく。  こんな状況だというのに、深い安らぎが波のようにヒタヒタと寄せてくる。  智の|瞳《ひとみ》は、一瞬のうちに京介の心を救う。  この世の誰にもできない方法で。  |浄化《じょうか》の|眼《まな》|差《ざ》し。  いと高きところから京介を救う光り輝ける|魂《たましい》。 「鷹塔……」  京介の体に、ふつふつと力がたぎってくる。頼りない明るさになっていた|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》の輝きが、しだいに強まってきた。  まだ終わっていない。  そう言った智の言葉を、今、痛いほどに実感する。  緋奈子が、ピンクの|宝《ほう》|珠《しゅ》を握ったまま、どこか|懐《なつ》かしげな眼差しで|呟《つぶや》いた。 「また強くなったわね、智ちゃん」  二人の視線が、宙でからみあう。  智は、初めて緋奈子にむかって微笑した。  |挑《いど》むような冷たい|笑《え》|顔《がお》。 「オレは、あなたを認めない」  緋奈子の表情が、わずかに曇った。 「そう……。なら、いらっしゃい」  短い|宣《せん》|戦《せん》|布《ふ》|告《こく》と、それに対する返答。  よけいな言葉は、ひとことも|交《か》わさない。  だが、二人のあいだにはピンと張りつめた|絆《きずな》のようなものが存在する。  やがて、智の全身から迷いのない青い|霊《れい》|光《こう》が輝きはじめる。 「東に|桜良《さ く ら》、西に紅葉、南に|睡《すい》|蓮《れん》、北に|吹雪《ふ ぶ き》。|四《し》|識《しき》|神《じん》に|命《めい》ず、|四《し》|天《てん》|降《ごう》|魔《ま》の|陣《じん》!」  智の声にしたがって、|式《しき》|神《がみ》たちは宙に舞いあがる。天の四方で青く光りはじめた。 「いざや|諸《もろ》|共《とも》に天を清め、地を|祓《はら》い、|邪《じゃ》を|誅伐《ちゅうばつ》せん」  素早く|己《おのれ》をとり戻した緋奈子が、|疵《きず》のない|透《す》きとおった声で|祭《さい》|文《もん》を|唱《とな》えだす。 「かけまくも|畏《かしこ》き|火之迦具土大神《ほのかぐつちのおおかみ》、|豊《とよ》|秋《あき》|津《つ》|根《ね》の|大《おお》|八《や》|嶋《しま》に|生《あれ》|坐《ませ》る……」  四方を固める四体の式神のあいだを、|共鳴《きょうめい》するような青いプラズマが走りぬけた。  ピシ……ッ! と大気が|軋《きし》んだ。  攻撃の体勢にはいった九曜と北斗が、|呪《じゅ》|縛《ばく》されたように動かなくなる。 「ナルミさん、天之尾羽張を! 宝珠を|狙《ねら》って攻撃してください!」  智の声が聞こえたとたん、京介の意識がパッと|鮮《せん》|明《めい》になった。  |消耗《しょうもう》した|霊力《れいりょく》が、|完《かん》|璧《ぺき》に回復しているのがわかった。体が、信じられないほど軽く、自在に動く。  京介は、もう迷わず純白の光の|刃《やいば》をかまえ、|邪《じゃ》|悪《あく》な三つの影にむかって|突《とっ》|進《しん》した。 「はぁあああああああーっ!」  緋奈子が、驚いたように片手をあげた。  パッと|極《ごく》|彩《さい》|色《しき》の|蝶《ちょう》の群れが現れ、京介に襲いかかる。 「あぶない!」  麗子の声が聞こえたが、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》に導かれるまま、前に突き進む。  気がつくと、京介は蝶の群れのなかを何事もなく通りぬけ、緋奈子に切りかかっていた。 「なぜ……!?」 「|破邪誅伐《はじゃちゅうばつ》ー!」  応戦しようとした緋奈子の手を、天之尾羽張がわずかにかすめた。  |宝《ほう》|珠《しゅ》が|弾《はじ》け飛ぶ。 「…………!」 「やったか!」  天之尾羽張が、京介の手のなかで勝手にクルンとひっくりかえり、ピンクの宝珠を空中で|叩《たた》き切った。     第十章 はじまりの場所で  コツン……。  二つに割れた|宝《ほう》|珠《しゅ》が、音をたてて、コンクリートの上に落ちる。  宝珠の内部から、揺らめく|地《ち》|霊《れい》|気《き》が、|虹《にじ》|色《いろ》の|光《こう》|彩《さい》となってあふれだした。  その光を浴びると、高く天にそびえていた|血花桜《ちのはなざくら》が内部からぐずぐずと|崩《ほう》|壊《かい》していく。  ザザザザザッ……! と、天の高みで風が鳴った。  |幾《いく》|千《せん》|万《まん》の|淡紅色《たんこうしょく》の花びらが、いっせいにひらひらと地上に舞い散りはじめる。集めた地霊気のすべてを大地に|還《かえ》すかのように。  それは、人の一生で、ただ一度見られるか見られないかの|壮《そう》|麗《れい》な桜|吹雪《ふ ぶ き》。 「|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》! |覚《かく》|悟《ご》しろ!」  |京介《きょうすけ》は、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を|掲《かか》げ、緋奈子を追いかけた。 「まだ死ぬわけにはいかないのよ」  緋奈子がきっと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめ、|六《ろく》|芒《ぼう》|星《せい》|印《いん》を結んだ。  京介の目の前が、一瞬、|闇《やみ》に閉ざされる。 「う……!」  その|隙《すき》に、|九《く》|曜《よう》と|北《ほく》|斗《と》の体が奇妙にねじれあがった。二人の体が平面的になり、ボッ……と黒い|炎《ほのお》をあげて燃えたかと思うと、次の瞬間、二枚の黒い|呪《じゅ》|符《ふ》に変わった。  白い指が、ひらり……と舞い落ちた呪符を拾いあげる。  緋奈子は、|怨《おん》|念《ねん》のこもった|瞳《ひとみ》で京介をじっと|見《み》|据《す》えた。 「|鳴《なる》|海《み》京介、覚えておくわよ。緋奈子の|邪《じゃ》|魔《ま》をしてくれたこと、忘れない」  京介は、思わずたじろいだ。  緋奈子の声は、|正真正銘《しょうしんしょうめい》の本気だ。そこに刻みこまれた殺意のすさまじさに、あと数週間は、夢でうなされそうな気がした。 「次に会う時は、あなたを殺す。水のなかで|溺《おぼ》れさせるのがいいかしら、それとも、ズタズタに切り|裂《さ》いてあげるのがいいかしら。……好みの死に方を考えておいてね。けっして楽には死なせてあげない」 「好みの死に方ね……」  いっそ、|腹上死《ふくじょうし》とでも言ってやろうかと思ったが、本当に実行に移されそうなので、やめておいた。|冗談《じょうだん》が通じるタイプではない。 「そんなふうにお|腹《なか》のなかで笑ってられるのも、今のうちだけよ」  クククッと、緋奈子の|唇《くちびる》から低い笑いがもれる。内心を|見《み》|透《す》かされたような気がして、京介はゾッとした。  緋奈子の全身が|陽炎《かげろう》のように震え、風に吹き飛ばされるようにして消滅した。  だが、京介の耳の底には、緋奈子の|背《せ》|筋《すじ》を凍らせるような|嘲笑《ちょうしょう》が、いつまでも響きつづけた。      *    *  気がつけば、輝く空間は、|嘘《うそ》のように消えていた。  日に照りつけられたコンクリートの上に、ぐったりと横たわった姿。血まみれの背中。  京介は、ふいにガクガクしはじめた足を踏みしめ、数歩前に出た。  全身の血が、音をたてて引いていく感覚がある。 「|鷹《たか》|塔《とう》……」  流れだす血の量を見るまでもなく、|智《さとる》の|魂《たましい》がもうここにはないのがわかった。  |紅葉《も み じ》の姿も、ほかの三人の姿も消え|失《う》せている。|主《あるじ》がこの世にいない以上、|式《しき》|神《がみ》も消滅したのだろう。  |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》が、京介の手のなかで、小さく震えた。十五センチほどのただの金属片に戻る。  真っ白な|喪《そう》|失《しつ》|感《かん》が、胸いっぱいに広がっていく。  涙も出ない。まだ実感がない。 「鷹塔……」 (死んでる……。でも、そんなことって……)  その肩に、|麗《れい》|子《こ》の手がかかる。  ふりかえると、|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いは泣いているようだった。マスカラで固めた|睫《まつ》|毛《げ》が|濡《ぬ》れている。 「気がついた? 智、死んだあとも魂だけで戦ってた……」 「ああ……」  京介は、子供のようにコックリとうなずく。言葉が出ない。 「このままにしておけないよね……。でも……まだ信じられないよ……|嘘《うそ》だって言ってほしい」  |深《しん》|紅《く》のルージュを塗った唇の端が、ピクピクと動く。今にも|嗚《お》|咽《えつ》がもれそうなのを、必死に押し殺している。 「いいよ、麗子さん。……泣けよ」 「バカ……! |生《なま》|意《い》|気《き》言ってんじゃ……ない……わよっ!」  言い返した声が、そのまま泣き声に変わる。  麗子の頭が、京介の胸に押しつけられた。肩を小刻みに震わせる|華《きゃ》|奢《しゃ》な姿。  その時、風に|亡《ぼう》|霊《れい》の|気《け》|配《はい》が|漂《ただよ》った。 「誰っ!? 言っとくけど、今出てきたら、|浄化《じょうか》なんかしてやんないわよ! |犬《いぬ》|神《がみ》に食わせて、永遠の|闇《やみ》のなかに|叩《たた》きこんであげるから!」  京介の胸から顔をあげた麗子が、涙でグシャグシャのすさまじい顔で|怒《ど》|鳴《な》る。  |滑《こっ》|稽《けい》な顔のはずなのに、おかしくはなかった。  京介は、もう一度、|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》に意識を集中した。ボーッと|淡《あわ》い光の|刃《やいば》が出現する。 「出てこい。黙ってんなよ」  ——ごめんなさい。  京介と智のあいだの空間に、少女の姿が浮かびあがった。日に|透《す》けて青白く見える体。|可愛《か わ い》いピンクのパジャマを着ている。長い髪と|頬《ほお》の|火傷《や け ど》の|痕《あと》を見るまでもなく、相手が誰かわかった。 「|牧《まき》|村《むら》……」  恐怖は、なぜか感じなかった。 「そっか……|怨霊《おんりょう》になったって、鷹塔、言ってたな」 「牧村さん……」  麗子が、複雑な表情で目を伏せる。 「ごめん。悪いけど、あとにしてちょうだい。あたし、今はもうあなたを|封《ふう》|印《いん》する元気ないのよ」 「麗子さん、その言い方、やめろよ。いくら自分が悲しいっていったって。牧村は、もっとずっとかわいそうで、つらいんだぞ」 「ごめんねぇ……ごめん。でも、本当にダメなのよ」  顔を|覆《おお》った麗子にむかって、|冴《さえ》|子《こ》がささやきかけてくる。  ——違うの、お姉さん。あたし、考えたんです。ずっとずっと、闇のなかで。あたしはこの顔の火傷の痕のことで、世間を|恨《うら》んでました。  冴子の|口調《くちょう》は、|穏《おだ》やかだ。  きちんと自分の頭で考え、結論を出したことなのだろう。京介と麗子を見つめる|瞳《ひとみ》は、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に明るい。  ——でも、わかったんです。あたしは、自分で自分を不幸にしてただけだって。もっと目をひらいてよく見れば、誰の上にも同じように雨が降るって、わかったはずなのに。  冴子の瞳が、血のなかに倒れている智を痛ましげに見つめた。  ——この人は、|縁《えん》もゆかりもない、あたしみたいな子の声を聞いてくれました。助けてって叫んだら、本当に助けにきてくれたんです。こんな人、ほかには絶対にいない……。だから今度はあたしが助ける番なんです。  麗子は、信じられないといった表情で、年下の少女を|凝視《ぎょうし》した。 「何を……する気?」  冴子は、ニッコリと|微笑《ほ ほ え》んだ。  アイドル候補生時代はこうだったろうと思わせる、|綺《き》|麗《れい》で|他人《ひ と》の心にすんなりと飛びこんでくるような|笑《え》|顔《がお》。  ——この人、あんまり遠くへは行ってないと思います。だから、あたしが追いかけていって、連れ戻してきますね。いいでしょう? 「無茶よ。死後三分以上たっちゃってる。|魂《たましい》が戻ったとしても、意識は回復しないわよ。脳が死んでるもの。植物状態になる智なんか見たくない。……ダメだってば。期待させないで。お願いだから……あなたは、他人の心配なんかしてないで、素直に|成仏《じょうぶつ》してちょうだい」  ——あたしのラッキー、全部この人にあげます。もういらないから。あたし、こうなる前はけっこう運強くて、天下無敵の晴れ女だったんですよ。|大丈夫《だいじょうぶ》。何度でも、|奇《き》|跡《せき》をおこしてみせるから。  冴子は、|幻《まぼろし》のような手をさしのべ、麗子の|頬《ほお》に触れる。  ——泣かないで、|百《もも》|瀬《せ》先生。あたし、美人でかっこいい先生のファンでした。いっぺんでいいから、先生の教育実習受けてみたかったな……。  麗子は、智を生き返らせるのは無理だというふうに、首を横にふる。  |意《い》|固《こ》|地《じ》になってしまったような麗子に代わって、京介は冴子に呼びかけた。|嘘《うそ》でも気休めでもいいと思った。 「麗子さんはああ言ってるけど、俺から頼む……。鷹塔が言ったんだ。あきらめる前にやってみようって。自分から、終わったと思い決めてしまわないかぎり、道はまだ続いているんだ……って」  注意していたのに、声がどうしようもなく震える。大きすぎる期待と不安に。  冴子は、うれしそうに笑ったようだった。  ——ありがと、ナルミ君。  一瞬、風が舞いあがったかと思うと、もうそこには牧村冴子の姿は見あたらなかった。  京介は、うつぶせに倒れたままの智に歩みより、|膝《ひざ》をついた。  ポロシャツが血に|濡《ぬ》れるのもかまわず、冷えはじめた体を抱きおこす。智の|目《ま》|蓋《ぶた》を閉じた綺麗な顔を見おろす。 「鷹塔……」  麗子が、|戸《と》|山《やま》公園を見おろす|屋上《おくじょう》の|角《かど》によりかかり、セーラムに火をつけた。  息詰まるような数分が過ぎた。 「やっぱりダメだったのよ」  行こうと、麗子がセーラムを|揉《も》み消した。ヒールを鳴らして歩き去ろうとする。  それでも期待して、息をひそめたスーツの背中。  京介は、そっと智の上に|屈《かが》みこみ、小声で呼びかけた。 「起きろよ、鷹塔……起きろ。もう終わったんだぞ」  風が吹き過ぎていく。  緑に|染《そ》まった風は、駅前方面の車の|喧《けん》|騒《そう》や、|戸《と》|山《やま》公園で遊ぶ子供たちの声を運んできた。 「さとる……」  京介の|唇《くちびる》は、|甦《よみがえ》りの|呪《じゅ》|文《もん》か何かのように、その名を|呟《つぶや》きつづける。 「帰ろう、さとる……一緒に……」  ポタリ……。  思いがけず、京介の涙が智の|頬《ほお》を|濡《ぬ》らす。 「起きろ、頼むから……もう待たせるな、頼む……」  苦しかった。待つのは、つらい。  来るかどうかわからない幸運を待つのは、誰でもつらい。  それでも、信じさえすれば、いつか望みはかなうのか。  世界じゅうが息を止め、ただ一つの瞬間を待ちうけていた。  だが、|奇《き》|跡《せき》がおこるのかどうかは、誰も知らない。 「さとる……|逝《い》くな……俺をおいて……」  三十分ほどたって、智の|肌《はだ》も冷えきり、ようやくあきらめがつきかけた頃——。  どこからともなく、|桜《さくら》の花びらが一枚、風に吹かれて飛んできた。花びらは、少年の閉ざされた薄青い|目《ま》|蓋《ぶた》の上にひらり……と落ちる。  何気なく京介が、花びらを取り除こうとした時。  薄く、本当に薄く、|陰陽師《おんみょうじ》の|瞳《ひとみ》が開いた。乾いた唇が動く。 「何……泣いて……る……んですか……」  麗子が、勢いよくふりかえる。 「智!?」  彼女が駆けよるより早く、京介は智を強く抱きしめた。その|首《くび》|筋《すじ》に顔を|埋《うず》める。  一瞬、コンクリートの上から|幻《まぼろし》の桜|吹雪《ふ ぶ き》が|湧《わ》きあがる。  安らかな冴子の想いと、どこからともなく降りそそぐ|浄化《じょうか》の光に包まれて、桜の花は天高く、静かに舞いあがっていく。  ——あたしのぶんまで……生きてね。  どこか空のずっと遠くで、冴子の|気《け》|配《はい》が消えた。  約束を果たして、天に|還《かえ》ったのだろう。 「牧村さん……」  麗子が濡れた瞳で、智と京介の|傍《かたわ》らに立ち、六月の空をふり|仰《あお》いだ。  ありがとうと、|深《しん》|紅《く》のルージュを塗った|唇《くちびる》が動く。  やがて、白い両手がゆっくりと|印《いん》を結びはじめた。 「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」  すべての|罪障《ざいしょう》を除き、|極楽浄土《ごくらくじょうど》へ導くという|光明真言《こうみょうしんごん》が、|諏訪東《すわひがし》高校の|屋上《おくじょう》に静かに流れだす。  |逝《い》ってしまった少女の|黄泉《よ み》|路《じ》を照らすように。  |不空遍照尊《ふくうへんじょうそん》よ、|大《たい》|印《いん》を有する|尊《そん》よ、|摩《ま》|尼《に》と|蓮花《は す》の光明をさしのべたまえ……。      *    *  夕暮れの校舎の屋上で、傷ついた体のまま、智は|両膝《りょうひざ》を|抱《かか》え、座りこんでいた。  全身の傷は、ほとんどは皮膚をかすった程度だったが、背中の傷だけは、かなり深い。  とりあえず、応急処置として麗子の|呪《じゅ》|符《ふ》で、その部分の生体反応を|封《ふう》|印《いん》し、出血を止めてあった。  麗子は、電話を探しに出ていった。救急車を呼ぶためと、JOAに連絡を入れ、この事件の|後《あと》|始《し》|末《まつ》を依頼するためだ。  JOA正職員をやめたものの、書類上はJOAの契約社員とアルバイトという形になっている麗子と智は、毎月、こういう事件の後始末にかかわるマスコミ対策費や、政財界対策費として、多額の金を|徴収《ちょうしゅう》されているという。  せっかく対策費を積みたててるんだから、もとを取らなきゃ損よと、麗子はシビアな顔になって主張する。  それに特に反対する気はなかったので、智も京介も、この件に関しては、|完《かん》|璧《ぺき》に麗子に|下《げ》|駄《た》を預けた。 「鷹塔……」  京介は、どうしていいのかわからず、少年の隣に立っている。  智は、自分を責めていた。  救おうとした牧村冴子を救うこともできず、逆に自分が助けられてしまった。あまりにも|無《ぶ》|様《ざま》だと。 「そんなに、深く考えるなよ、な。東京の|地《ち》|霊《れい》|気《き》だって、守られたんだからさ」 「…………」 「|不可抗力《ふかこうりょく》だったんだ」  こんな言葉が無意味なことくらい、京介にもわかっていた。  それでも、何か言わずにはいられない。 「力が欲しい……」  小さな声で智が|呟《つぶや》く。 「え……?」 「オレには力が必要なんだ。ここで、今すぐ」  燃えるような智の|瞳《ひとみ》が、京介を射すくめる。 「なんで、オレ、緋奈子とあんな戦い方しかできなかったんだ! オレが|陰陽師《おんみょうじ》だっていうんなら、もっと力があってもいいはずだ。こんなオレは……オレじゃない!」  |悔《くや》しい……と、少年の|唇《くちびる》が動く。 「鷹塔……」  こんな顔は、見ていられない。  京介は、少年の|傍《かたわ》らに|膝《ひざ》をついた。肩に腕をまわす。  そのまま、形のいい頭を|抱《かか》えこんだ。 「いい。もう言うな。言わなくていい。わかったから」 「もう二度と……許さない」  こんな敗北は、自分自身に許さない。  絶対に。  智は、ギリギリと唇を|噛《か》みしめ、宙を|睨《にら》み|据《す》える。  膝を抱えた姿勢のまま、傷ついた少年は身じろぎもしない。  やがて、|温《あたた》かな指が京介の腕を|探《さぐ》りあて、手のひらをつかむ。  そのまま、|頬《ほお》に押しあてる。  えっ、と、京介は首をねじって、智の顔を見た。 「どう……鷹塔?」 「ナルミさん、ひとつ|訊《き》いていいですか」  智がまぢかに顔をよせて、京介を見つめる。  思いつめたような表情に、京介の胸がドキリとする。 「なんだよ」 「これからどう……します? |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を捨てて、何もなかったことにして、ただの高校生に戻りますか」  それは、魅力的な|誘《ゆう》|惑《わく》だった。  普通の生活に戻る。  何もなかったことにして……。  ゲームは終わった。日常がはじまる。そして、何もかも夢になるのだ。  一瞬の|幻《まぼろし》。すぎさった悪夢。 「それなら、オレは止めません。でも、あんたが普通の高校生に戻るなら、もう二度と会えませんよ」 「なんでだよ。高校、一緒だろ」 「あんたが、この一件を忘れる気なら、オレは転校します」 「どうしてだよ。おい……」  智は、ふいと顔をそむけ、乱暴に京介の手をふりほどく。 「なんでわからないんだろう」と、低く|呟《つぶや》く。 「あんたを巻きこみたくないからに、決まってるじゃないですか。オレ、変な|感《かん》|応《のう》能力あるし……あんたがそばにいると」  すがりつくような|瞳《ひとみ》。  智は感情表現が|下手《へ た》だと、麗子が言ったことを思い出す。  京介は、自分が、さも幸福そうに微笑していることに気がついた。  中学二年の時、自分が父の実の息子ではないと知った。  何もかもが|崩《くず》れ落ちるような気がした。  |傲《ごう》|慢《まん》で、気ままで、美しい母。その母にふりまわされて、それでも|文《もん》|句《く》ひとつ言わず、ニコニコ笑うだけの父。  本当は、実の息子でない自分が|憎《にく》いだろうに、|笑《え》|顔《がお》をむけてくるあの男が、|怖《こわ》かった。  すべてが|嘘《うそ》だと思った。  家を出たのは、そのせいだ。  あいつらの金で生活したくなかった。|欺《ぎ》|瞞《まん》に満ちたあの家で暮らしたくなかった。  信じて、裏切られるくらいなら、俺は一生一人でいいのだと。  誰にも必要とされなくても、生きていけるのだと。  俺は強いから、一人でも|大丈夫《だいじょうぶ》なのだと——|凍《こご》えながら、自分に言い聞かせていた。  それでも、心のどこかで、|飢《う》えていた。寒かった。 (こんな俺を必要としてくれる人間がいる……)  ここに、今、目の前に。  智がいる。  智が、現れたのだ。  痛いほどに、誰かの手を求めていた京介の前に。  だから、いいのだと、京介は深い安らぎのなかで思っていた。 (この先、どんなに危険な戦いが待っているとしても。  歩いていける) 「おまえ、力が必要なんだろ。やるよ」 「何、|冗談《じょうだん》言って……」 「やる。|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》ごと、俺の力やるよ」  |不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに京介を見つめた顔。何を言われているのか、理解できないようだ。  京介は、智の|両肘《りょうひじ》をつかみ、全身を引きよせた。  どこかぼうっとした|瞳《ひとみ》は、|綺《き》|麗《れい》に|透《す》きとおっている。  智の目のなかに、ありのままの自分の姿が映っていた。  迷って、|怯《おび》えて、智の行動の一つ一つに振りまわされてきた自分。  |臆病《おくびょう》で、お人よしで、弱気な鳴海京介。  それでも……。 「こんな俺でいいんなら……そばにいてやる。一緒に戦ってやる。|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を使って、おまえを守る」 (おまえの剣になる。  俺の生涯をかけて) 「ダメですよ、ナルミさん」  智は、つらそうに微笑した。  そむけた横顔の|気《け》|配《はい》が変わる。  頼りなげな表情に重なって、|酷《こく》|薄《はく》で尊大な|陰陽師《おんみょうじ》の顔が浮かびあがる。 「あんたの力なんかいらない」  押し殺した低い|呟《つぶや》き。 「なんでだ、鷹塔! なんで……!?」  陰陽師の|炎《ほのお》のような|一《いち》|瞥《べつ》。  すべての善意も、甘えも焼きつくす瞳。 「これは、オレと緋奈子の戦いだ。あんたには関係ない」 「|嘘《うそ》をつくな!」  思わず|怯《ひる》んで目をそらした智は、|狼《ろう》|狽《ばい》を隠すように、素早く立ちあがる。  傷ついた体で歩きだそうとする。 「やめろ、無茶だ!」  せっかく麗子が|呪《じゅ》|符《ふ》でふさいでくれた傷口が開く。  カツン……と靴音が聞こえた。 「あ、麗子さん、救急車は……」  言いながら、ふりかえった京介は、ギクリとした。|夕《ゆう》|闇《やみ》|迫《せま》る|屋上《おくじょう》の入り口に立っているのは、麗子ではない。  長い薄茶の髪を背中に流した白衣姿の青年。銀ブチ|眼鏡《め が ね》のむこうから京介を見つめる視線は、氷のように冷えている。 「医師が必要なのではないかと思ってな」  白衣の男は、ツカツカとこちらに歩みよってきた。  声に、聞き覚えがあった。十秒ほど遅れて、智の|留《る》|守《す》|番《ばん》電話に入っていた声だと気づく。  智が、ゆっくりと男のほうに目をむける。とりつくしまもない表情。 「また……あんたですか」 「少しは、考えが変わったのではないかね。こんなひどい目にあって……」  |時《とき》|田《た》は、智の|傍《かたわ》らに立ち、じっとその切れ長の|瞳《ひとみ》を|覗《のぞ》きこむ。 「鷹塔、こいつ、誰なんだよ」  京介の|頬《ほお》にカッと血がのぼる。時田の親しげな様子に、胸が焼けつく。 「彼に言ってもいいのかね、智」  クスクスと笑う時田の表情は、|淫《みだ》らといってもいい。 「ご勝手に。言われて困るようなこと、ありませんから」 「そうかね」  白い指が、血でごわごわになったコットンシャツのボタンをはずそうとする。  智は、|弾《はじ》かれたように、時田の手をふりはらった。 「オレに……|触《さわ》らないでください」  その急激な動作が背中の傷に響いたものか、智は息をのんで、うめき声をもらすまいと|唇《くちびる》を|噛《か》みしめる。時田の手が、苦しむ智の肩をそっと抱きよせた。 「だから、君はほうっておけないのだよ」 「鷹塔に手ぇかけんじゃねーよ! おい!」  止めようと手をのばした京介は、ひょいとかわされる。時田は智を軽々と|抱《かか》えあげた。  苦痛に顔を|歪《ゆが》めた智は、抵抗する気力がないようだ。 「君には関係ないことだよ、鳴海京介」 「なんだ……なんで俺の名前、知ってるんだよ」 「わたしの智にかかわることは、すべて知っているさ」  |声《こわ》|高《だか》に所有権を主張するような言葉と目つき。そういうことかと、京介は納得した。  納得したそばから、|怒《いか》りがこみあげてくる。  時田は、|嘲《あざけ》るような微笑を浮かべる。 「智はよかったか。もう|試《ため》してみたんだろう」 「……え……ちょっと待てよ」 「君には、智は渡さない。申し遅れたが、わたしは時田|忠《ただ》|弘《ひろ》。JOA所属の|心霊治療師《サイキック・ヒーラー》だ。法的には、智の保証人……ということになる。JOAの九億の借金も、わたしが保証人になっている。|文《もん》|句《く》があったら、いつでも、わたしの心霊治療センターに来たまえ」 「文句だと……なに言ってやがんでぇ、てめえ」  時田の瞳は、|露《ろ》|骨《こつ》に|嫉《しっ》|妬《と》の|炎《ほのお》を燃やしている。  勝手にライバル宣言されて、京介は熱くなる。  売られた|喧《けん》|嘩《か》は、理由のいかんにかかわらず、買う主義だ。  たとえそれが、男同士の三角関係という、とんでもない理由であったとしても、だ。  智の薄く開いた|唇《くちびる》を、時田の白い指がなぞっていく。|扇情的《せんじょうてき》な|仕《し》|草《ぐさ》。 「ん……うっ……」  その|喉《のど》もと、動脈のあたりに時田は唇をよせる。 「その苦痛、消してほしいかね」 「いら……ない……っ!」  夕暮れの最後の光のなかで、のけぞる智の顔は|幻《まぼろし》のように|綺《き》|麗《れい》だ。  こんな状況だというのに、勝手に目が吸いよせられていく。 「いいかげんにしろ、時田忠弘!」  |怒《ど》|鳴《な》った京介は、やみくもに前に出ようとした。  しかし、|呪《じゅ》|縛《ばく》されたように、足が動かない。 「|強情《ごうじょう》だな」  時田は、苦笑し、智の背中に手のひらを押しあてる。  |心霊治療師《サイキック・ヒーラー》の指先が、青白く|透《す》きとおって光りはじめた。 「う……」  激痛を予想したのか、キュッと|唇《くちびる》を結んだ智の顔を|愛《いと》しむように|眺《なが》めると、時田は青白い指先から|癒《いや》しの|霊力《れいりょく》を送りこんだ。  十秒ほどそうしていたろうか。智の表情から苦痛の色が消えた。  時田は、優しく智をコンクリートにおろす。 「細胞を活性化させて傷口を閉じた。もう痛くないだろう」  思わせぶりな、ひと呼吸の沈黙。 「請求書は、いずれ送らせてもらうぞ」  智が、|陰《いん》にこもった目つきで時田を|睨《にら》みつける。 「勝手に押しかけてきたくせに、金とる気ですか。……最低だな」 「べつに、払ってもらうのは金じゃなくてもいいんだがね」 「体でも」と時田が続ける。それを|封《ふう》じるように、智はピシャリと言った。 「きっちり現金で払わせていただきます」  時田はクスクス笑って、智のほうに手をさしのばした。  智はその手をパンとはねのけ、無言のまま、二人に背をむけ、階段をおりていった。  京介に、一緒に来いとも言わない。 「鷹塔……」  京介は、ぼんやりと、夕暮れの|早《わ》|稲《せ》|田《だ》|通《どお》り方面を見つめつづけた。  ネオンがにじんで、流れだす。  智とのあいだの距離は、変わらない。おまえに手が届かない。 (そんなにおまえは一人がいいのか。心の底では、|寂《さび》しがっているくせに)  どこからか、救急車のサイレンが近づいてきた。  運ぶべき急患がいなかったら、救急車の乗務員たちも腹がたつだろう。  京介は、ヤケぎみに緑と白のバッシュを|脱《ぬ》いで、時田の背後に忍びより、薄茶の頭めがけて思いっきりふりおろした。  コンクリートに倒れ伏した白衣の背中をひと|睨《にら》みすると、京介は黒いCDラジカセを拾いあげ、重い足どりで校舎をあとにする。  ひどい気分だ。  足早に駅にむかって歩きつづける京介の腕を、誰かがつかんだ。      *    * 「京介君、どうしたの? 智は?」  シャランと、金のバングルが鳴る。 「治った。一人で出ていっちまった。JOAの時田って男が、勝手に治療かなんだか知らないけどやってさ……」  麗子の|瞳《ひとみ》が明るくなった。 「そう……時田先生が……」 「何、あの男、知ってるわけ?」  麗子は、京介の|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうな様子には気づかないようだ。何かいいことがあったのか、やけにうれしそうだ。 「JOAじゃ、有名よ。なにしろ創立者の直系の孫で、サラブレッドだし、JOAの|心霊治療《しんれいちりょう》センターの実質的な|看《かん》|板《ばん》医者なの。役員も上層部も、先生には頭があがらないのよね。そのうえ、ルックスいいし、女扱いうまいしぃ、独身だしぃ、リッチだしぃ……|狙《ねら》ってる女の子、ものすごい数になる」  麗子の声がオクターブ高くなる。腹に|一《いち》|物《もつ》ありそうな声だ。 「……やめとけよ、あの男は」 「うまく|射《い》|止《と》めたら玉の|輿《こし》でしょ」 「無理だと思うけど」  麗子は、|綺《き》|麗《れい》にマニキュアを塗った指をのばし、京介の|額《ひたい》をツンとつつく。 「ナマイキよ、京介君」  そういう意味じゃないんだ、と言いかけた言葉をのみこむ。女である麗子さんに、どう言ったらいいんだろう。あんな場面見せられて。 「そういえばね、JOAに電話して|訊《き》いたら、例の|怨霊《おんりょう》|封《ふう》じこめたフロッピー盗まれた件、あたしの処分、|不《ふ》|問《もん》になったって。ラッキーって素直に喜んでいいのかわからないけど……。時田先生が口ぞえしてくれたのよ。いい人でしょ」  違うと思う。たぶん、あいつの目当ては鷹塔で、麗子さんを助けたのは、|将《しょう》を|射《い》んと|欲《ほっ》すれば、まずその馬をってやつじゃないだろうか。 (どこまでも、そつのない|野《や》|郎《ろう》だ……)  京介は、ため息をついた。 「鷹塔、どこ行ったんだろう」  会話の流れを変えたくて口に出した問いは、気がつけば、今、自分がいちばん知りたいことだった。  麗子は、ほんわりと|微笑《ほ ほ え》んだ。 「心配いらないわ。あいつ、一つ事件が解決するたびに、ふらっとどっかへ行っちゃうの。昔からの|癖《くせ》なのよ。あ、でも、そんなに遠くへは行っていないはずだわ。とにかく、あいつ、|真《ま》|面《じ》|目《め》だからね、一日も欠かさず学校へ行くの。|大丈夫《だいじょうぶ》よ、ほうっておいても」  打ち上げで飲もうと、麗子はなかば|強《ごう》|引《いん》に京介を|誘《さそ》う。 「今日は、あたしのおごり! お姉さんが、なーんでもおごってあげる! だからさ、行こう! もうカニ|道《どう》|楽《らく》でも、|満《まん》|漢《かん》|全《ぜん》|席《せき》でも許す! つぶれるまで、飲も!」  必要以上にはしゃいで、|慰《なぐさ》めてくれている。  麗子の明るい|笑《え》|顔《がお》に救われるような気がした。  結局、|新宿《しんじゅく》に出てから、CDで紅葉も呼びだして、三人でドンチャン騒ぎとなった。      *    *  さんざん飲んで、騒いで、|看《かん》|板《ばん》になって、焼け|焦《こ》げた暗いアパートの部屋に戻る。  |練《ねり》|馬《ま》|区《く》の実家へ戻る終電もとっくに行ってしまった。 「……ふう」  明日はまた早起きして、新聞配達のバイトをしなければならない。火事があったからといって、いつまでも休んでるとクビになってしまう。 「疲れたぜ……ったく」  あれだけ忙しかった一日が、ようやく終わる。ホッとしていいはずだったのに、心のどこかに穴があいたようだ。  のろのろと階段を上がると、ドアが|砕《くだ》け散ってなくなった自室から、|廊《ろう》|下《か》に明かりがもれているのが見えた。 「え……?」  ドアのあたりに人影が立って、こちらを見ている。  |慌《あわ》てて階段を上りきり、部屋の前に立つ。 「遅かったじゃないですか」  すねたような声が、ささやく。まぢかにある|凜《りん》とした|瞳《ひとみ》、|微笑《ほ ほ え》む|唇《くちびる》。 「鷹塔……」 (これも夢の続きだろうか。おまえは、俺のところに帰ってきた) 「こんな部屋で寝る気ですか。明日あたりから|梅雨《つ ゆ》入りだそうですよ」 「なんで……」 「よかったら、落ち着くまでオレのマンションに来ませんか。責任、感じるんですよね。アパート、こんなことになっちゃいましたし」 (どこまでも、素直じゃない|奴《やつ》だ)  胸のなかの重苦しいしこりが、|嘘《うそ》のように|氷解《ひょうかい》していく。 「何……笑ってるんですか。気持ち悪い」 「いいのか。オレ、おまえと緋奈子の戦いに割って入るかもしんねーぜ」 「考えたら、あんた、もう、緋奈子の|恨《うら》み買ってるんですよね」  智は、しれっとした顔で言う。 「……おい」 「|面《めん》も割れてるし、居所だってすぐにバレますよ」  シベリアンハスキーのような|怖《こわ》い目が、京介をじっと見つめる。 「かわいそうだから、オレがあんたを守ってあげます」 「…………」 「だから、何も心配しなくていいんですよ」  |脅迫《きょうはく》するような目つき。 (本気で言ってるのか……まさかな。いや、しかし断れば、緋奈子に居所をバラすくらい、やりかねない)  京介は、ため息をついた。 (まったく……素直じゃないんだから)  智の肩に手をのばし、そのまま、顔を近よせる。  智は、動かない。ここで動じたら負けだ、とでも思っているのだろうか。  京介はクックッと笑いながら、少年の腰に手をまわし、抱きよせた。 (わかってないな。俺のアパートに来た時点で、おまえ、負けてるんだぜ)  智は、ムッとしたように、京介の胸を押しのけ、顔をそむける。  その|顎《あご》を|強《ごう》|引《いん》につかんで、瞳の奥を|覗《のぞ》きこむ。 「俺が必要なんだろ」  返答はない。 「必要だって、言ってみろよ」 「…………」  かすかな|呟《つぶや》き。 「聞こえない、さとる」  智は、目を伏せ、顔をそむける。  ただ、|温《あたた》かな指が京介の両肩をつかんだ。  |砕《くだ》けよとばかりに、握りしめる。  それだけで、気持ちは通じると思っているのだろう。  京介は、微笑した。  確かに、想いは通じていた。  これ以上はないというほどに。  勝利を実感する。  たぶん、これがはじまり。二人してどこまで行けるだろう。想いは壊れないだろうか。  どんな地平を二人で見るのだろう。  |闇《やみ》のなかでタオルケットにくるまり、隣室の智の呼吸に耳を澄ます。  深夜三時。 「ああああああああーっ!」  京介は、|絞《し》め殺されそうな智の悲鳴に飛びおきた。心臓がドキドキしている。 「どうした、おいっ!」  常夜灯がついて薄明るい六畳の|寝《しん》|室《しつ》に駆けこむ。智は震えながら、京介の後ろを指し示す。 「あれ……」  ものすごく|嫌《いや》な予感がする。ふりむいた京介の|喉《のど》が、ヒィッと鳴った。  寒々とした青白い光の|塊《かたまり》が、部屋の|隅《すみ》に浮いている。江戸時代の|遊《ゆう》|女《じょ》らしい娘だ。血まみれの首から|縄《なわ》をぶらさげ、着物の下の足はない。  |亡《ぼう》|霊《れい》は、智と京介を見ると、ニイッと笑って姿を消した。  智が片手で顔を|覆《おお》う。室内は、クーラーがききすぎたように、異様に冷えきっている。 「忘れてた……。出るんですよね、ここ最近ずっと」 「|冗談《じょうだん》じゃねえよ……ったく」  京介は、深いため息を吐いた。もう亡霊だの|怨霊《おんりょう》だのはたくさんだ。 「オカルトなんか大っ嫌いだ……」  智が、ゴソゴソとタオルケットにもぐりこみながら、|素《そ》っ|気《け》なく呟く。 「なら、出ていくんですね。オレといるかぎり、|縁《えん》はきれませんよ」 「今の|嘘《うそ》。なし。俺、オカルト大好きっ」  |慌《あわ》てて言うと、タオルケットの下から、シベリアンハスキーのような目が京介を見あげた。 「本当に?」  京介は、微笑した。  そっと手をのばして、智の|頬《ほお》に触れる。 「ここにいるからな。ずっと……」  少年は、安心したのか、満足げに目を閉じた。やがて、安らかな|吐《と》|息《いき》が聞こえてくる。  京介は、智の|枕《まくら》もとの|天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》を引きよせた。  |降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》を、智の頭上に|掲《かか》げる。 (おまえの眠りを守りたい)  すべての迷いも悩みも押し流すように、窓の外は激しい雨が降っていた。 [#地から2字上げ]『銀の共鳴2』に続く     『銀の共鳴』における用語の説明 [#ここから1字下げ]  これらの用語は、『銀の共鳴』という作品世界のなかでのみ、通用するものです。  表現の都合上、本来の意味とは違った解釈をしていることを、ここでお断りしておきます。  |陰陽師《おんみょうじ》や|式《しき》|神《がみ》などについて、詳しくお知りになりたい方は、巻末に参考文献の一覧がありますので、そちらをご覧になってください。 [#ここで字下げ終わり] |天《あめ》|之《の》|尾《お》|羽《は》|張《ばり》……|邪《じゃ》|神《しん》や|魔《ま》を|斬《き》る剣。|降《ごう》|魔《ま》の|利《り》|剣《けん》とも呼ばれる。普段はただの金属片だが、|鳴《なる》|海《み》|京介《きょうすけ》の|霊《れい》|波《は》と意思に|感《かん》|応《のう》して、二メートルほどの純白の光の|刃《やいば》となって|顕《けん》|現《げん》する。 |犬《いぬ》|神《がみ》……特定の家筋に|憑《つ》いて、その家のものを守護する動物神。憑いた家筋のものに敵対する人間は、犬神によって攻撃されたり、殺されたりする。 犬神使い……犬神憑きの家筋で、霊的に強い力を持っていて、犬神を自在に|操《あやつ》れる人間に与えられた称号。 陰陽師……式神を操り、退魔や|呪《じゅ》|咀《そ》、|除災招福《じょさいしょうふく》などを行う術者。 |九《く》|字《じ》……「|臨兵闘者皆陣裂在前《りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん》」と|唱《とな》えながら、右手指で|縦横《じゅうおう》に九本の線を引く魔よけの動作。 |光明真言《こうみょうしんごん》……「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」と唱える。宗派を問わない万能の真言。 |祭《さい》|文《もん》……|祝詞《の り と》のこと。同じものでも、神官が唱える時は「祝詞」、陰陽師が唱えると「祭文」になる。 |式《しき》|神《がみ》……古代の|陰陽師《おんみょうじ》が|呪術《じゅじゅつ》を行う際に操作した|神《しん》|霊《れい》。紙の|呪《じゅ》|符《ふ》から作ったり、神や|鬼《おに》をとらえて|使《し》|役《えき》したりするなど、製造方法は多種多様。 |四《し》|識《しき》|神《じん》……|桜良《さ く ら》、|睡《すい》|蓮《れん》、|紅葉《も み じ》、|吹雪《ふ ぶ き》のこと。式神は|識《しき》|神《がみ》とも表記する。 |咒《じゅ》……ここでは|真《しん》|言《ごん》の別称として使っている。 |呪《じゅ》|火《か》……|呪《じゅ》|咀《そ》によって引きおこされた火のこと。 |木《す》|霊《だま》……樹木の霊が変質した|妖《よう》|怪《かい》の一種。 |血花桜《ちのはなざくら》……大地の|地《ち》|霊《れい》|気《き》を|汲《く》みあげるポンプのような働きのある|呪《じゅ》|具《ぐ》。桜の巨樹の外見をとる。汲みあげた地霊気は、どこかに|器《うつわ》になるものを用意して受けとめないと、あふれだしてもとの大地に戻ってしまう。ここでは、|牧《まき》|村《むら》|冴《さえ》|子《こ》の心臓を地霊気の器とした。 時定めの咒……式神の出現する未来の時間を、前もって正確に指示して|唱《とな》えた呪文のこと。タイマーつきの呪文と考えればよい。 |豊《とよ》|秋《あき》|津《つ》|根《ね》の|大《おお》|八《や》|嶋《しま》……日本の古称。 中臣の祭文……ここでは「天津祝詞」の別称として使っている。本来は、「|大祓《おおはらえの》祝詞」の別称。古くは、中臣氏が専門に唱えることの多かった祭文(祝詞)なので、この名がある。 |火《ほ》|之《の》|迦《か》|具《ぐ》|土《つち》……イザナギとイザナミのあいだに生まれた火の神。実の母を焼き殺して誕生し、その直後に実の父に|斬《き》り殺された。その|怨《おん》|念《ねん》は、今も|浄化《じょうか》されていない。 |羅刹衆《らせつしゅう》……|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》の配下である牛や馬などの|獣面人身《じゅうめんじんしん》の妖怪たちのこと。     あとがき  はじめまして。  そして、前作からの読者様には、こんにちは。お待たせしました。 『銀の共鳴1』『|桜《さくら》の|降《ごう》|魔《ま》|陣《じん》』をお届けします。  今どき珍しい「|凜《りん》とした」という形容詞の似合う少年。  |綺《き》|麗《れい》なだけじゃなくて、精神的に強くて、絶対的なカリスマのある少年の物語を書いてみたい。  それが、主人公の|陰陽師《おんみょうじ》・|鷹塔智《たかとうさとる》の生まれたきっかけです。  守られるタイプではなく、自分から誰かを助けるために走りだしていくような少年。  青年じゃダメなんですよね、この場合。少年なのがミソ。  カリスマがあるから、みんながついてきてしまうけれど、でも、心のなかには「選ばれたものの孤独」のようなものがあって、普通であれなかった自分を悲しんでいる。  鷹塔智は、現時点でわたしが生み出せる最高のキャラクターだと思います。  わたしのなかにある「少年」のイメージそのもの、なので。  選ばれたものの|恍《こう》|惚《こつ》と苦痛……って、思春期特有の心理のような気がするんですよね。  つまり、「少年」の心理。  それも、特別な「少年」の。  現実の少年たちは、たいてい周囲の少年たちとくらべて、多少運動ができるとか、多少お勉強が得意だとか、そういうレベルでの違いしかありませんよね。  でも、そういう普通の少年のなかに、ひと目でわかるほど|綺《き》|麗《れい》で、絶対的なカリスマがあって、|霊能力《れいのうりょく》がある少年がいたとしたら……?  特別な少年自身も、その周囲の少年たちもつらいだろうなあ、と思うわけで。  ましてや、普通の学校生活のなかではなく、サイキック・バトルという究極の状況のなかでは、その|葛《かっ》|藤《とう》はどれほどだろう。  ……と、こんなふうに考えるところから、物語ははじまりました。  主人公・鷹塔智の|相《あい》|棒《ぼう》・|鳴《なる》|海《み》|京介《きょうすけ》。  智が「非日常」であるのに対して、鳴海京介は「日常」そのものです。  オカルトが大嫌いで、お人よしで、特技は家事全般。  京介は、たぶん、カリスマの|権《ごん》|化《げ》である智に|劣《れっ》|等《とう》|感《かん》のようなものを感じていると思います。  それでも、彼は自分では意識していないけれど、智と同じくらい強いんですよね。  地に足をつけてるし、他人を思いやれる優しさがある。  ついでに、料理が得意。きっと紅茶をいれるのも|上手《じょうず》に違いない。  身長あるし、色黒だし、さわやかな健康優良児。  このへんは、作者の|趣《しゅ》|味《み》&理想がもろに出てます。  もう少し成長してくれて、もっと|甲斐性《かいしょう》が出てくると、岡野、京介にメロメロになるかもしれないです。  恋人にするなら智、|生涯《しょうがい》の|伴《はん》|侶《りょ》にするなら京介よね。  智と京介は、たがいに|補《おぎな》いあって、どんどん強くなれる|相《あい》|棒《ぼう》同士であってほしい。  まちがっても、「一緒に死のう」みたいな関係にはなってほしくない。  あくまでも、健全に、未来にむかって歩いてほしいと思っています。  |蛇《だ》|足《そく》ですが。  アイ・ラブ・ユーを「死んでもいい」と訳した|明《めい》|治《じ》の|翻《ほん》|訳《やく》|家《か》がいたそうです。  でも、岡野はアイ・ラブ・ユーの訳は「一緒に死のう」だと思うわけです。  その人が好きで、好きだけれど、触れても、それ以上近くに行けなくて、どうしようもないくらい悲しくて。  時間も命も何もかも共有したいのに、そんなことは絶対にできないのは、理性でわかりますし。  時のなかで愛が|崩《くず》れて、違うものになってしまうくらいなら、いっそ、好きな人を道連れにして死んでしまいたい。その人を好きなうちに、何もかも壊して、終わりにしてしまいたい。  そういう気持ちが「一緒に死のう」になる。  それくらい愛している、ということですが。  でもね、そういう|不《ぶ》|器《き》|用《よう》でしんどい恋は、智にはしてほしくないです。京介にも、もちろんだけれど。  この『銀の共鳴』は、五冊完結を予定しています。  それぞれ一話完結形式で、どの巻から読んでも楽しめる|退《たい》|魔《ま》ものをめざします。  |不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な世界、というのは昔から好きでした。  |陰陽師《おんみょうじ》や|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いのひそむ|逢《おう》|魔《ま》が|時《とき》。  |呪《じゅ》|殺《さつ》|者《しゃ》が都会の|闇《やみ》を忍び歩き、さまよえる|霊《れい》|魂《こん》は|彼方《か な た》から呼びかけてくる。  目に見えるものだけがすべてではない世界。  心と現実が密接につながっているような、そういう世界に住んでみたいものだと思っていました。  木々には木々の霊がいて、森にも湖にも海にも、それぞれの霊魂や|妖《よう》|怪《かい》が住んでいる世界。  もちろん、不夜城・東京にも、東京の霊魂や妖怪がいるんですよね。  血塗られた伝説や|怨《おん》|念《ねん》もあったりして。  そういう世界に住むのは、まあ、いくらなんでも無理ですので、せめて物語のなかで実現してみたいということで。  そういうわけで、書いてみたのが『銀の共鳴1』『|桜《さくら》の|降《ごう》|魔《ま》|陣《じん》』。  つまり、この話です。  舞台は新宿区。  やっぱり、新宿区って、どこか不思議な土地ですよね。  本当に|鬼《おに》とか、|鎧武者《よろいむしゃ》が歩いてても、ぜんぜん違和感がないかもしれない。  |妖《よう》|気《き》を感じるぞ。  かくいうわたしも、新宿区の|妖《あや》しい魅力につかまって、大学四年間住みついてしまったクチだったりして。  ある意味で、この本は|新宿区《しんじゅくく》へのラブレターかもしれません。  2は、|湘南《しょうなん》が舞台の『水の|伏《ふく》|魔《ま》|殿《でん》』。  3が、東京に戻って『|鷹《たか》|狩《が》りの夜』。以下、題名・内容とも未定という状況です。  全巻とおして、主人公・智と|相《あい》|棒《ぼう》の京介が登場。  巻によっては、この二人に|犬《いぬ》|神《がみ》|使《つか》いの|麗《れい》|子《こ》とか、ゲストキャラだとかが加わります。  とりあえず、基本は智と京介。  そして、この二人と、智の|幼《おさな》なじみの|魔《ま》の|盟《めい》|主《しゅ》・|緋《ひ》|奈《な》|子《こ》との戦いを軸に、物語は展開するのです。  毎回、これで絶筆になっても後悔しないぞ! くらいの気合いで書いています。  こんなに自分のキャラクターに|惚《ほ》れたのは初めてだし、こんなに書いていて楽しかったのも初めてです。  たぶん、岡野の作品のなかではいちばんいい話だわ、これは。作者本人が|太《たい》|鼓《こ》|判《ばん》押しちゃう。  いちばんいいというのは、現時点では、ということですけれど。 「あとがき」読みながら、買おうかどうしようかと迷ってるかたは、だまされたと思って、とにかく買ってみてくださいね。  今回、ラスト近くで、空いっぱいに|幻《まぼろし》の|桜吹雪《さくらふぶき》が散ります。  桜は好きです。  花びらが風に散るのも好きだし、青空に|映《は》えて咲き誇っている状態も好き。  主人公・智のイメージフラワー(変な表現かも)は、桜です。  イメージカラーは、白と青。  相棒・鳴海京介の場合は……うーん、なんだろう。  花しょってるイメージないし。しいていえば、ヒマワリかな。  イメージカラーとしては、緑かなと思うわけですが。アースカラーかもしれない。  |派《は》|手《で》な犬神使い・麗子さんは、|紅《くれない》のイメージ。  魔の盟主・緋奈子は、とうぜん緋色。花なら、|鬼《おに》|芥《け》|子《し》ですね。  ハシバミ色の|瞳《ひとみ》(ヘイゼルの瞳ともいう)の悪い男・|時《とき》|田《た》|忠《ただ》|弘《ひろ》は、黒でしょう。白衣着てても、やっぱり黒だわ。  前作からの|担《たん》|当《とう》の小林様、今回は、新シリーズの最初ということで、いろいろ|不《ふ》|手《て》|際《ぎわ》があり、申し訳ありませんでした。  これに|懲《こ》りず、次回からもよろしくお願いいたします。  また、お忙しいスケジュールの合間をぬって、イラストをお引き受けいただきました|碧《あお》|也《また》ぴんく様、本当にありがとうございます。  小説というのは、イラストがついて初めて、具体的な「顔」ができるような気がします。  そういう意味で、『|桜《さくら》の|降《ごう》|魔《ま》|陣《じん》』がどんな「顔」になるのか、作者自身、とても楽しみにしております。  完結まで、どうぞよろしくおつきあいくださいませ。  それから、印刷所と|校《こう》|閲《えつ》|部《ぶ》のご担当者様……いつもありがとうございます。今後とも|精進《しょうじん》を重ねますので、よろしくお願い申し上げます。  そして、最後に、この本を手にとってくださった読者様。  岡野のイメージのなかにある|街《まち》・|新宿《しんじゅく》へようこそ。  智や京介たちと一緒に、|波乱万丈《はらんばんじょう》の冒険をお楽しみください。  では、次回、ますます気合いの入る『水の|伏《ふく》|魔《ま》|殿《でん》』でお会いしましょう。 [#地から2字上げ]|岡《おか》|野《の》|麻《ま》|里《り》|安《あ》   〈参考図書〉 『延喜式祝詞教本』(御巫清勇・神社新報社) 『鬼がつくった国・日本』(小松和彦・光文社) 『古事記全訳注』(上・中・下)(次田真幸・講談社) 『古代日本の謎』(神一行編・KKベストセラーズ) 『呪術と占いの日本史』(渋谷申博/瓜生中・日本文芸社) 『詳説佛像の持ちものと装飾』(秋山正美・松栄館) 『神道の本』(学習研究社) 『世界宗教事典』(村上重良・講談社) 『道教の本』(学習研究社) 『日本神道入門』(本田総一朗・日本文芸社) 『日本神話』(上田正昭・岩波書店) 『日本の神々』(松前健・中央公論社) 『日本の秘地・魔界と聖域』(小松和彦/荒俣宏ほか・KKベストセラーズ) 『日本妖怪異聞録』(小松和彦・小学館) 『にっぽん妖怪の謎』(阿部正路・KKベストセラーズ) 『仏教語ものしり事典』(斎藤昭俊・新人物往来社) 『梵字必携』(児玉義隆・朱鷺書房) 『魔の世界』(那谷敏郎・新潮社) 『密教呪術入門』(中西俊哉・祥伝社) 『密教の本』(学習研究社) |桜《さくら》の|降《ごう》|魔《ま》|陣《じん》 |銀《ぎん》の|共鳴《きょうめい》1 講談社電子文庫版PC |岡《おか》|野《の》 |麻《ま》|里《り》|安《あ》 著 (C) Okano Maria 1993 二〇〇一年一月十一日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001